であらう。もちろん此處にも思想がなかつたのではない、ただその思想といふものの意味が違つてゐる。西洋思想に對して東洋思想を主張しようとする場合、思想とは何かといふ認識論的問題から吟味してかかることが必要である。
私にとつて死の恐怖は如何にして薄らいでいつたか。自分の親しかつた者と死別することが次第に多くなつたためである。もし私が彼等と再會することができる――これは私の最大の希望である――とすれば、それは私の死においてのほか不可能であらう。假に私が百萬年生きながらへるとしても、私はこの世において再び彼等と會ふことのないのを知つてゐる。そのプロバビリティは零である。私はもちろん私の死において彼等に會ひ得ることを確實には知つてゐない。しかしそのプロバビリティが零であるとは誰も斷言し得ないであらう、死者の國から歸つてきた者はないのであるから。二つのプロバビリティを比較するとき、後者が前者よりも大きいといふ可能性は存在する。もし私がいづれかに賭けねばならぬとすれば、私は後者に賭けるのほかないであらう。
假に誰も死なないものとする。さうすれば、俺だけは死んでみせるぞといつて死を企てる者がきつと出てくるに違ひないと思ふ。人間の虚榮心は死をも對象とすることができるまでに大きい。そのやうな人間が虚榮的であることは何人も直ちに理解して嘲笑するであらう。しかるに世の中にはこれに劣らぬ虚榮の出來事が多いことにひとは容易に氣附かないのである。
執着する何ものもないといつた虚無の心では人間はなかなか死ねないのではないか。執着するものがあるから死に切れないといふことは、執着するものがあるから死ねるといふことである。深く執着するものがある者は、死後自分の歸つてゆくべきところをもつてゐる。それだから死に對する準備といふのは、どこまでも執着するものを作るといふことである。私に眞に愛するものがあるなら、そのことが私の永生を約束する。
死の問題は傳統の問題につながつてゐる。死者が蘇りまた生きながらへることを信じないで、傳統を信じることができるであらうか。蘇りまた生きながらへるのは業績であつて、作者ではないといはれるかも知れない。しかしながら作られたものが作るものよりも偉大であるといふことは可能であるか。原因は結果に少くとも等しいか、もしくはより大きいといふのが、自然の法則であると考へられてゐる。その人の作つたものが蘇りまた生きながらへるとすれば、その人自身が蘇りまた生きながらへる力をそれ以上にもつてゐないといふことが考へられ得るであらうか。もし我々がプラトンの不死よりも彼の作品の不滅を望むとすれば、それは我々の心の虚榮を語るものでなければならぬ。しんじつ我々は、我々の愛する者について、その者の永生より以上にその者の爲したことが永續的であることを願ふであらうか。
原因は少くとも結果に等しいといふのは自然の法則であつて、歴史においては逆に結果はつねに原因よりも大きいといふのが法則であるといはれるかも知れない。もしさうであるとすれば、それは歴史のより優越な原因が我々自身でなくて我々を超えたものであるといふことを意味するのでなければならぬ。この我々を超えたものは、歴史において作られたものが蘇りまた生きながらへることを欲して、それを作るに與つて原因であつたものが蘇りまた生きながらへることは決して欲しないと考へられ得るであらうか。もしまた我々自身が過去のものを蘇らせ、生きながらへさせるのであるとすれば、かやうな力をもつてゐる我々にとつて作られたものよりも作るものを蘇らせ、生きながらへさせることが一層容易でないといふことが考へられ得るであらうか。
私はいま人間の不死を立證しようとも、或ひはまた否定しようともするのではない。私のいはうと欲するのは、死者の生命を考へることは生者の生命を考へることよりも論理的に一層困難であることはあり得ないといふことである。死は觀念である。それだから觀念の力に頼つて人生を生きようとするものは死の思想を掴むことから出發するのがつねである。すべての宗教がさうである。
傳統の問題は死者の生命の問題である。それは生きてゐる者の生長の問題ではない。通俗の傳統主義の誤謬――この誤謬はしかしシェリングやヘーゲルの如きドイツの最大の哲學者でさへもが共にしてゐる――は、すべてのものは過去から次第に生長してきたと考へることによつて傳統主義を考へようとするところにある。かやうな根本において自然哲學的な見方からは絶對的な眞理であらうとする傳統主義の意味は理解されることができぬ。傳統の意味が自分自身で自分自身の中から生成するもののうちに求められる限り、それは相對的なものに過ぎない。絶對的な傳統主義は、生けるものの生長の論理でなくて死せるものの生命の論理を基
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