。或ひは倫理の問題が幸福の問題から分離されると共に、あらゆる任意のものを倫理の概念として流用することが可能になつたのである。幸福の要求が今日の良心として復權されねばならぬ。ひとがヒューマニストであるかどうかは、主としてこの點に懸つてゐる。
 幸福の問題が倫理の問題から抹殺されるに從つて多くの倫理的空語を生じた。例へば、倫理的といふことと主體的といふこととが一緒に語られるのは正しい。けれども主體的といふことも今日では幸福の要求から抽象されることによつて一つの倫理的空語となつてゐる。そこでまた現代の倫理學から抹殺されようとしてゐるのは動機論であり、主體的といふ語の流行と共に倫理學は却つて客觀論に陷るに至つた。幸福の要求がすべての行爲の動機であるといふことは、以前の倫理學の共通の出發點であつた。現代の哲學はかやうな考へ方を心理主義と名附けて排斥することを學んだのであるが、そのとき他方において現代人の心理の無秩序が始まつたのである。この無秩序は、自分の行爲の動機が幸福の要求であるのかどうかが分らなくなつたときに始まつた。そしてそれと同時に心理のリアリティが疑はしくなり、人間解釋についてあらゆる種類の觀念主義が生じた。心理のリアリティは心理のうちに秩序が存在する場合にあかしされる。幸福の要求はその秩序の基底であり、心理のリアリティは幸福の要求の事實のうちに與へられてゐる。幸福論を抹殺した倫理は、一見いかに論理的であるにしても、その内實において虚無主義にほかならぬ。

 以前の心理學は心理批評の學であつた。それは藝術批評などといふ批評の意味における心理批評を目的としてゐた。人間精神のもろもろの活動、もろもろの側面を評價することによつてこれを秩序附けるといふのが心理學の仕事であつた。この仕事において哲學者は文學者と同じであつた。かやうな價値批評としての心理學が自然科學的方法に基く心理學によつて破壞されてしまふ危險の生じたとき、これに反抗して現はれたのが人間學といふものである。しかるにこの人間學も今日では最初の動機から逸脱して人間心理の批評といふ固有の意味を抛棄し、あらゆる任意のものが人間學と稱せられるやうになつてゐる。哲學における藝術家的なものが失はれてしまひ、心理批評の仕事はただ文學者にのみ委ねられるやうになつた。そこに心理學をもたないことが一般的になつた今日の哲學の抽象性がある。その際見逃してならぬことは、この現代哲學の一つの特徴が幸福論の抹殺と關聯してゐるといふことである。

 幸福を單に感性的なものと考へることは間違つてゐる。むしろ主知主義が倫理上の幸福説と結び附くのがつねであることを思想の歴史は示してゐる。幸福の問題は主知主義にとつて最大の支柱であるとさへいふことができる。もし幸福論を抹殺してかかるなら、主知主義を扼殺することは容易である。實際、今日の反主知主義の思想の殆どすべてはこのやうに幸福論を抹殺することから出發してゐるのである。そこに今日の反主知主義の祕密がある。

 幸福は徳に反するものでなく、むしろ幸福そのものが徳である。もちろん、他人の幸福について考へねばならぬといふのは正しい。しかし我々は我々の愛する者に對して、自分が幸福であることよりなほ以上の善いことを爲し得るであらうか。

 愛するもののために死んだ故に彼等は幸福であつたのでなく、反對に、彼等は幸福であつた故に愛するもののために死ぬる力を有したのである。日常の小さな仕事から、喜んで自分を犧牲にするといふに至るまで、あらゆる事柄において、幸福は力である。徳が力であるといふことは幸福の何よりもよく示すところである。

 死は觀念である、と私は書いた。これに對して生は何であるか。生とは想像である、と私はいはうと思ふ。いかに生の現實性を主張する者も、飜つてこれを死と比較するとき、生がいかに想像的なものであるかを理解するであらう。想像的なものは非現實的であるのでなく、却つて現實的なものは想像的なものであるのである。現實は私のいふ構想力(想像力)の論理に從つてゐる。人生は夢であるといふことを誰が感じなかつたであらうか。それは單なる比喩ではない、それは實感である。この實感の根據が明かにされねばならぬ、言ひ換へると、夢或ひは空想的なものの現實性が示されなければならない。その證明を與へるものは構想力の形成作用である。生が想像的なものであるといふ意味において幸福も想像的なものであるといふことができる。

 人間を一般的なものとして理解するには、死から理解することが必要である。死はもとより全く具體的なものである。しかしこの全く具體的な死はそれにも拘らず一般的なものである。「ひとは唯ひとり死ぬるであらう」、とパスカルはいつた。各人がみな別々に死んでゆく、けれどもその死はそれにも拘らず
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