あり得るほど有徳或ひはむしろ有力であり得るであらうか。逆にいつたい誰が與へないでただ取るばかりであり得るほど有力或ひはむしろ有徳であり得るであらうか。純粹な英雄主義が稀であるやうに、純粹な利己主義もまた稀である。
我々の生活を支配してゐるギヴ・アンド・テイクの原則は、たいていの場合我々は意識しないでそれに從つてゐる。言ひ換へると、我々は意識的にのほか利己主義者であることができない。
利己主義者が不氣味に感じられるのは、彼が利己的な人間であるためであるよりも、彼が意識的な人間であるためである。それ故にまた利己主義者を苦しめるものは、彼の相手ではなく、彼の自意識である。
利己主義者は原則的な人間である、なぜなら彼は意識的な人間であるから。――ひとは習慣によつてのほか利己主義者であることができない。これら二つの、前の命題とも反し、また相互に矛盾する命題のうちに、人間の力と無力とが言ひ表はされる。
我々の生活は一般にギヴ・アンド・テイクの原則に從つてゐると言へばたいていの者がなにほどかは反感を覺えるであらう。そのことは人生において實證的であることが如何に困難であるかを示してゐる。利己主義といふものですら、殆どすべてが想像上のものである。しかも利己主義者である要件は、想像力をもたぬといふことである。
利己主義者が非情に思はれるのは、彼に愛情とか同情とかがないためであるよりも、彼に想像力がないためである。そのやうに想像力は人生にとつて根本的なものである。人間は理性によつてといふよりも想像力によつて動物から區別される。愛情ですら、想像力なくして何物であるか。
愛情は想像力によつて量られる。
實證主義は本質的に非情である。實證主義の果てが虚無主義であるのはだから當然のことである。
利己主義者は中途半端な實證主義者である。それとも自覺に達しない虚無主義者であるといへるであらうか。
利己的であることと實證的であることとは、しばしば摩替へられる。一つには自己辯解のために、逆には他人攻撃のために。
我々の生活を支配するギヴ・アンド・テイクの原則は、期待の原則である。與へることには取ることが、取ることには與へることが、期待されてゐる。それは期待の原則として、決定論的なものでなくてむしろ確率論的なものである。このやうに人生は蓋然的なものの上に成り立つてゐる。人生
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