礎とするのである。過去は死に切つたものであり、それはすでに死であるといふ意味において、現在に生きてゐるものにとつて絶對的なものである。半ば生き半ば死んでゐるかのやうに普通に漠然と表象されてゐる過去は、生きてゐる現在にとつて絶對的なものであり得ない。過去は何よりもまづ死せるものとして絶對的なものである。この絶對的なものは、ただ絶對的な死であるか、それとも絶對的な生命であるか。死せるものは今生きてゐるもののやうに生長することもなければ老衰することもない。そこで死者の生命が信ぜられるならば、それは絶對的な生命でなければならぬ。この絶對的な生命は眞理にほかならない。從つて言ひ換へると、過去は眞理であるか、それとも無であるか。傳統主義はまさにこの二者擇一に對する我々の決意を要求してゐるのである。それは我々の中へ自然的に流れ込み、自然的に我々の生命の一部分になつてゐると考へられるやうな過去を問題にしてゐるのではない。
 かやうな傳統主義はいはゆる歴史主義とは嚴密に區別されねばならぬ。歴史主義は進化主義と同樣近代主義の一つであり、それ自身進化主義になることができる。かやうな傳統主義はキリスト教、特にその原罪説を背景にして考へると、容易に理解することができるわけであるが、もしそのやうな原罪の觀念が存しないか或ひは失はれたとすれば如何であらう。すでにペトラルカの如きルネサンスのヒューマニストは原罪を原罪としてでなくむしろ病氣として體驗した。ニーチェはもちろん、ジイドの如き今日のヒューマニストにおいて見出されるのも、同樣の意味における病氣の體驗である。病氣の體驗が原罪の體驗に代つたところに近代主義の始と終がある。ヒューマニズムは罪の觀念でなくて病氣の觀念から出發するのであらうか。罪と病氣との差異は何處にあるのであらうか。罪は死であり、病氣はなほ生であるのか。死は觀念であり、病氣は經驗であるのか。ともかく病氣の觀念から傳統主義を導き出すことは不可能である。それでは罪の觀念の存しないといはれる束洋思想において、傳統主義といふものは、そしてまたヒューマニズムといふものは、如何なるものであらうか。問題は死の見方に關はつてゐる。
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    幸福について

 今日の人間は幸福について殆ど考へないやうである。試みに近年現はれた倫理學書、とりわけ我が國で書かれた倫理の本を開いて見たまへ
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