るであらう。しかしかやうな世界においては生命は成立することができない。何故であるか。生命は抽象的な法則でなく、單なる關係でも、關係の和でも積でもなく、生命は形であり、しかるにかやうな世界においては形といふものは考へられないからである。形成は何處か他のところから、即ち虚無から考へられねばならぬ。形成はつねに虚無からの形成である。形の成立も、形と形との關係も、形から形への變化もただ虚無を根柢として理解することができる。そこに形といふものの本質的な特徴がある。

 古代は實體概念によつて思考し、近代は關係概念或ひは機能概念(函數概念)によつて思考した。新しい思考は形の思考でなければならぬ。形は單なる實體でなく、單なる關係乃至機能でもない。形はいはば兩者の綜合である。關係概念と實體概念とが一つであり、實體概念と機能概念とが一つであるところに形が考へられる。

 以前の人間は限定された世界のうちに生活してゐた。その住む地域は端から端まで見通しのできるものであつた。その用ゐる道具は何處の何某が作つたものであり、その技倆はどれほどのものであるかが分つてゐた。また彼が得る報道や知識にしても、何處の何某から出たものであり、その人がどれほど信用のできる男であるかが知られてゐた。このやうに彼の生活條件、彼の環境が限定されたものであつたところから、從つて形の見えるものであつたところから、人間自身も、その精神においても、その表情においても、その風貌においても、はつきりした形のあるものであつた。つまり以前の人間には性格があつた。
 しかるに今日の人間の條件は異つてゐる。現代人は無限定な世界に住んでゐる。私は私の使つてゐる道具が何處の何某の作つたものであるかを知らないし、私が據り所にしてゐる報道や知識も何處の何某から出たものであるかを知らない。すべてがアノニム(無名)のものであるといふのみでない。すべてがアモルフ(無定形)のものである。かやうな生活條件のうちに生きるものとして現代人自身も無名な、無定形なものとなり、無性格なものとなつてゐる。
 ところで現代人の世界がかやうに無限定なものであるのは、實は、それが最も限定された結果として生じたことである。交通の發達によつて世界の隅々まで互に關係附けられてゐる。私は見えない無數のものに繋がれてゐる。孤立したものは無數の關係に入ることによつて極めてよく限
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