彼の名譽心は彼の怒が短氣であることを防ぐであらう。ほんとに自信のある者は靜かで、しかも威嚴を具へてゐる。それは完成した性格のことである。

 相手の怒を自分の心において避けようとして自分の優越を示さうとするのは愚である。その場合自分が優越を示さうとすればするほど相手は更に輕蔑されたのを感じ、その怒は募る。ほんとに自信のある者は自分の優越を示さうなどとはしないであらう。

 怒を避ける最上の手段は機智である。

 怒にはどこか貴族主義的なところがある。善い意味においても、惡い意味においても。

 孤獨の何であるかを知つてゐる者のみが眞に怒ることを知つてゐる。

 アイロニイといふ一つの知的性質はギリシア人のいはゆるヒュブリス(驕り)に對應する。ギリシア人のヒュブリスは彼等の怒り易い性質を離れて存しなかつたであらう。名譽心と虚榮心との區別が瞹昧になり、怒の意味が瞹昧になつた今日においては、たとひアイロニイは稀になつてゐないとしても、少くともその效用の大部分を失つた。
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    人間の條件について

 どんな方法でもよい、自己を集中しようとすればするほど、私は自己が何かの上に浮いてゐるやうに感じる。いつたい何の上にであらうか。虚無の上にといふのほかない。自己は虚無の中の一つの點である。この點は限りなく縮小されることができる。しかしそれはどんなに小さくなつても、自己がその中に浮き上つてゐる虚無と一つのものではない。生命は虚無でなく、虚無はむしろ人間の條件である。けれどもこの條件は、恰も一つの波、一つの泡沫でさへもが、海といふものを離れて考へられないやうに、それなしには人間が考へられぬものである。人生は泡沫の如しといふ思想は、その泡沫の條件としての波、そして海を考へない場合、間違つてゐる。しかしまた泡沫や波が海と一つのものであるやうに、人間もその條件であるところの虚無と一つのものである。生命とは虚無を掻き集める力である。それは虚無からの形成力である。虚無を掻き集めて形作られたものは虚無ではない。虚無と人間とは死と生とのやうに異つてゐる。しかし虚無は人間の條件である。

 人間の條件として他の無數のものが考へられるであらう。例へば、この室、この机、この書物、或ひはこの書物が與へる知識、またこの家の庭、全體の自然、或ひは家族、そして全體の社會……世界。このいくつか
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