たプラトンには一つの智慧がある。しかし自己の生活について眞の藝術家であるといふことは、人間の立場において虚榮を驅逐するための最高のものである。

 虚榮は生活において創造から區別されるディレッタンティズムである。虚榮を藝術におけるディレッタンティズムに比して考へる者は、虚榮の適切な處理法を發見し得るであらう。
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    名譽心について

 名譽心と虚榮心とほど混同され易いものはない。しかも兩者ほど區別の必要なものはない。この二つのものを區別することが人生についての智慧の少くとも半分であるとさへいふことができるであらう。名譽心が虚榮心と誤解されることは甚だ多い、しかしまた名譽心は極めて容易に虚榮心に變ずるものである。個々の場合について兩者を區別するには良い眼をもたねばならぬ。

 人生に對してどんなに嚴格な人間も名譽心を抛棄しないであらう。ストイックといふのはむしろ名譽心と虚榮心とを區別して、後者に誘惑されない者のことである。その區別ができない場合、ストイックといつても一つの虚榮に過ぎぬ。

 虚榮心はまづ社會を對象としてゐる。しかるに名譽心はまづ自己を對象とする。虚榮心が對世間的であるのに反して、名譽心は自己の品位についての自覺である。
 すべてのストイックは本質的に個人主義者である。彼のストイシズムが自己の品位についての自覺にもとづく場合、彼は善き意味における個人主義者であり、そしてそれが虚榮の一種である場合、彼は惡しき意味における個人主義者に過ぎぬ。ストイシズムの價値も限界も、それが本質的に個人主義であるところにある。ストイシズムは自己のものである諸情念を自己とは關はりのない自然物の如く見ることによつて制御するのであるが、それによつて同時に自己或ひは人格といふ抽象的なものを確立した。この抽象的なものに對する情熱がその道徳の本質をなしてゐる。

 名譽心と個人意識とは不可分である。ただ人間だけが名譽心をもつてゐるといはれるのも、人間においては動物においてよりも遙かに多く個性が分化してゐることに關係するであらう。名譽心は個人意識にとつていはば構成的である。個人であらうとすること、それが人間の最深の、また最高の名譽心である。
 名譽心も、虚榮心と同樣、社會に向つてゐるといはれるであらう。しかしそれにしても、虚榮心においては相手は「世間」といふもの、詳し
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