る。生命は形によつて生き、形において死ぬる。生命は習慣によつて生き、習慣において死ぬる。死は習慣の極限である。
習慣を自由になし得る者は人生において多くのことを爲し得る。習慣は技術的なものである故に自由にすることができる。もとよりたいていの習慣は無意識的な技術であるが、これを意識的に技術的に自由にするところに道徳がある。修養といふものはかやうな技術である。もし習慣がただ自然であるならば、習慣が道徳であるとはいひ得ないであらう。すべての道徳には技術的なものがあるといふことを理解することが大切である。習慣は我々に最も手近かなもの、我々の力のうちにある手段である。
習慣が技術であるやうに、すべての技術は習慣的になることによつて眞に技術であることができる。どのやうな天才も習慣によるのでなければ何事も成就し得ない。
從來修養といはれるものは道具時代の社會における道徳的形成の方法である。この時代の社會は有機的で、限定されたものであつた。しかるに今日では道具時代から機械時代に變り、我々の生活の環境も全く違つたものになつてゐる。そのために道徳においても修養といふものだけでは不十分になつた。道具の技術に比して機械の技術は習慣に依存することが少く、知識に依存することが多いやうに、今日では道徳においても知識が特に重要になつてゐるのである。しかしまた道徳は有機的な身體を離れ得るものでなく、そして知性のうちにも習慣が働くといふことに注意しなければならぬ。
デカダンスは情念の不定な過剩であるのではない。デカダンスは情念の特殊な習慣である。人間の行爲が技術的であるところにデカダンスの根源がある。情念が習慣的になり、技術的になるところからデカダンスが生ずる。自然的な情念の爆發はむしろ習慣を破るものであり、デカダンスとは反對のものである。すべての習慣には何等かデカダンスの臭が感じられないであらうか。習慣によつて我々が死ぬるといふのは、習慣がデカダンスになるためであつて、習慣が靜止であるためではない。
習慣によつて我々は自由になると共に習慣によつて我々は束縛される。しかし習慣において恐るべきものは、それが我々を束縛することであるよりも、習慣のうちにデカダンスが含まれることである。
あのモラリストたちは世の中にいかに多くの奇怪な習慣が存在するかについてつねに語つてゐる。そのことはいか
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