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個性について
個性の奧深い殿堂に到る道はテーバイの町の門の數のやうに多い。私の一々の生活は私の信仰の生ける告白であり、私の個々の行爲は私の宗教の語らざる傳道である。私のうちに去來するもろもろの心は自己の堂奧に祀られたるものの直接的な認識を私に喚び起させるために生成し、發展し、消滅する。それ故に有限なものを通して無限なものを捕捉し得る者は、私の唯一つの思想感情もしくは行爲を知ることによつてさへ、私がまことの神の信者であるか、それともバールの僧侶であるかを洞察し得るであらう。しかしながら多くの道があるといふことはその意味を掴み得ない者にとつては單に迷路があるといふに過ぎない。
私は私のうちに無數の心像が果てしなく去來するのを意識する。私といふものは私の腦裡に生ずる表象や感情や意欲の totum discretum であるのか。それは「觀念の束」ででもあるのか。けれども私は一切の活動がただ私に於て[#「私に於て」に傍点]起ることを知つてゐる。私といふものは無數の心像がその上に現はれては消えつつ樣々な悲喜劇を演ずる舞臺であるのか。それはすべてのものがそこへ入つて行くが何ものもそこから出て來ないところの「獅子の住む洞穴」ででもあるのか。しかし私は私の精神過程の生成と消滅、生産と衰亡の一切がただ私に因つて[#「私に因つて」に傍点]起ることを知つてゐる。
もし私といふものが私のあらゆる運動と變化がその前で演じられる背景であるとすれば、それは實に奇怪で不氣味な Unding であるといはねばならぬ。私はそれに如何なる指示し得べき内容をも與へることができない。なぜなら私がそれについて表象する性質は悉く此背景を俟つて可能なのであつて背景そのものではないから。從つてそれはもはや個性であることをやめねばならない。私はかやうなものをただ何物ででもなくまた、何物からも生じない抽象的實體として考へ[#「考へ」に傍点]得るのみである。かくして私は虚無觀の前にたたずむ。私によつて決して體驗される[#「體驗される」に傍点]ことがないこの惡魔的な Unding は、私が經驗する色あり響あるすべての喜びと悲しみを舐め盡し、食ひ盡してしまふ。しかし私はこの物から再び七彩の交錯する美しい世界へ歸るべき術を知らないのである。
私もまた「萬の心をもつ人」である。私は私の内部に絶えず鬩ぎ合ひ
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