るのでなくどこまでも他から與へられるものである故に私はそれを失ふことができないのである。近代の人格主義は主觀主義となることによつて解體しなければならなかつた。
希望と現實とを混同してはならぬといはれる。たしかにその通りである。だが希望は不確かなものであるか。希望はつねに人生といふものほどの確かさは持つてゐる。
もし一切が保證されてゐるならば希望といふものはないであらう。しかし人間はつねにそれほど確實なものを求めてゐるであらうか。あらゆる事柄に對して保證されることを欲する人間――ひとは戰爭に對してさへ保險會社を設立する――も、賭に熱中する。言ひ換へると、彼は發明された偶然、強ひて作られた運命に心を碎かうとするのである。恐怖或ひは不安によつて希望を刺戟しようとするのである。[#「である。」は底本では「である」]
希望の確實性はイマジネーションの確實性と同じ性質のものである。生成するものの論理は固形體の論理とは異つてゐる。
人生問題の解決の鍵は確實性の新しい基準を發見することにあるやうに思はれる。
希望が無限定なものであるかのやうに感じられるのは、それが限定する力そのものであるためである。
スピノザのいつたやうに、あらゆる限定は否定である。斷念することをほんとに知つてゐる者のみがほんとに希望することができる。何物も斷念することを欲しない者は眞の希望を持つこともできぬ。
形成は斷念であるといふことがゲーテの達した深い形而上學的智慧であつた。それは藝術的制作についてのみいはれることではない。それは人生の智慧である。
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旅について
ひとはさまざまの理由から旅に上るであらう。或る者は商用のために、他の者は視察のために、更に他の者は休養のために、また或る一人は親戚の不幸を見舞ふために、そして他の一人は友人の結婚を祝ふために、といふやうに。人生がさまざまであるやうに、旅もさまざまである。しかしながら、どのやうな理由から旅に出るにしても、すべての旅には旅としての共通の感情がある。一泊の旅に出る者にも、一年の旅に出る者にも、旅には相似た感懷がある。恰も、人生はさまざまであるにしても、短い一生の者にも、長い一生の者にも、すべての人生には人生としての共通の感情があるやうに。
旅に出ることは日常の生活環境を脱けることであり、平生の習慣的な關係か
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