ことのない自己がいかにして自己の真実を語り得るのであるか。自己が自己を語ろうとすることそのことがすでに一つの煩悩ではないか。親鸞が全生命を投げ込んで求めたものは実にこのただ一つの極めて単純なこと、すなわち真実心を得るということ、まごころに徹するということであった。信仰というものもこれ以外にないのである。煩悩において欠くることのない自己が真実の心になるということは、他者の真実の心が自己に届くからでなければならぬ。そのとき自己の真実は顕わになる。われが自己の現実を語るのではなく、現実そのものが自己を語るのである。ここに知られる真実は冷い、単に客観的な真理ではない。この真実にはまごころが通っている。まごころは理性ではなくむしろ情のことである。我々は人間的真理を二と二との和は四であるという数学的真理を知ると同じように知ろうとするのではなく、またそれはそのように知られるものでもない。
親鸞の文章を読んでむしろ奇異に感じられることは、無常について述べることが少ないということである。これはとかく感傷的な宗教のように考えられている彼の思想においてむしろ奇異の感を懐かせることであるが、しかしこれが事実であり、また真実である。そしてそこに彼の思想の特殊な現実主義の特色が見出されるのである。
もとより諸行無常は現実である。そしてそれは仏教の出発点である。この世における何物も常住のものはない。すべては生成し消滅し変化する。かくして我々の頼みとすべき何物もないのである。生老病死は無常なる人生における現実である。かかる無常の体験が釈迦の出世間の動機であった。無常はさしあたり仏教の説ではなくて世界の現実である。常ないものを常あるもののごとく思い、頼むべからざるものを頼みとするところに、人生における種々の苦悩は生ずる。無常は現実であると知りながら、その認識を徹底させることのできないところに人間の迷いがあり、苦しみがあるのである。かくして仏教は諸行無常の自然的な感覚を諸行無常の徹底した智慧にまで徹底自覚せしめようとするのである。かくして諸行無常はいわば前仏教的な体験から仏教的な思想にまで高められる。人間の現実を深く見詰め、仏教の思想を深く味わった親鸞に無常感がなかったとは考えられない。しかも彼はこの無常感にとどまることができなかったのである。何故であるか。
無常感はそのものとしては宗教的である
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