は鎌倉時代の仏教の著しい特色をなしている。それはこの時代における宗教改革の運動、新宗教の誕生にとって共通の思想的背景となっている。法然や親鸞、日蓮は言うまでもなく、栄西や道元のごときも何らか末法思想をいだいていた。法然上人の反対者であった明恵上人や解脱上人ごときですら末法思想を持っていた。ただ、末法時をいかに見るか、またいかにこれに処すべきかについては、これらの人々の見解は一様ではなかった。
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 正像末史観の重心は末法にある。それは末法史観[#「末法史観」に傍点]にほかならない。親鸞の『正像末法和讃』を見るに、その五十八首のことごとくが末法に関係して、正法像法をそれ自身として歌ったものは一つもない。末法は未来に属するのではなく、まさに現在である。この現在の関心において過去の正法時および像法時も初めて関心の中に入ってくるのである。現在がまさに末法時であるというところから浄土[#「浄土」に傍点]は未来に考えられることになる。
 彼はどこまでも深く現在[#「現在」に傍点]の現実の自覚の上に立った。いたずらに過去[#「過去」に傍点]の理想的時代を追うことは彼のことではなかった。
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釈迦如来かくれましまして
二千余年になりたまふ
正像の二時はおはりにき
如来の遺弟悲泣せよ
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釈尊はすでに入滅した、現在の我々はもはや釈尊に遺され捨てられてしまったのであると彼は嘆き悲しむのである。いたずらに過去を追うべきではない。またいたずらに未来[#「未来」に傍点]を憧れるべきではない。遠い未来に出現すべしと伝えられた弥勒に頼ることもやめねばならぬ。
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五十六億七千万
弥勒菩薩はとしをへん
まことの信心うるひとは
このたびさとりをひらくべし
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現在のこの現実が問題である。釈迦はすでに死し、弥勒はいまだ現われない。今の時はいわば無仏の時である。過去の理想も未来の理想も現在において自証されないかぎり意味を有しない。現在の現実の自覚における唯一の真実は現在がまさに末法の時であるということである。
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 時代の歴史的現実の深い体験は親鸞に自己の現在が救い難い悪世であることを意識させた。しかも彼のこの体験を最もよく説明してくれるものは正像末の歴史観である。正像末三時の教説は
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