は決して単なる論文集ではない。先生は、一つの論文を書き終えられるといつでもすぐ何か書き足りないものがあるのを感じられて、その書き足りないものを書こうとして、また書き始められてやがて次の論文が出来るというのではないかと思う。先生の論文には終りがないのである。芸術家の活動は無限であって、その作品は完成されることがないというフィードレルの言葉を先生はよく引用されるが、先生の著作がちょうどそのようなものではないかと思う。先生は多くの論文を書かれながら結局一つの長篇論文を書かれているのである。そしてそれは完結することのないものである。それは多くの小説を書きながら一生の間結局一つの長篇小説を書いているにほかならぬ作家の場合に似ている。先生はいろいろなテーマについて書かれながら、結局一つの根本的なテーマを追求されているのであって、その追求の烈しさと執拗さとはまことに驚嘆のほかない。もちろん、『善の研究』このかた最近の論文に至るまで、先生の哲学には発展があり、その発展に注目することは大切である。しかしそこにまた根本的に連続的なものがある。先生は一面時代に対して極めて敏感な思想家である。先生には新しい流行を作ってゆかれるようなところがある。その意味で先生には、すぐれたジャーナリストの感覚があるということもできる。しかし先生の如く時代に対して敏感で、時代から絶えず影響されながら、先生の如くつねに一つのものを追求している思想家は稀《まれ》である。そこに先生の哲学の新しさと共に深さがある。時代に敏感な者はとかく浅薄になる、自分に固執する者は停頓《ていとん》しがちである。先生はそのいずれでもない。生命というものは環境から限定され逆に環境を限定するものであるとは、先生がこの頃いつも述べられることであるが、それはまさに先生の哲学そのものの姿である。先生の哲学は先生独特の文章のスタイルを離れて考えられないであろう。ヘーゲルが彼独特のスタイルをもって考えたように、西田先生も先生独特のスタイルをもって考えられているのである。先生においては文章のスタイルがそのまま哲学である。そのスタイルを離れてその思想を表現することは不可能に近いであろう。
先生の哲学には東洋的直観的なものがある。それを先生は禅から学んでこられたのであろう。しかしそれは禅からのみ来ているものではないように思われる。先生にはまた『愚禿親
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