すると共に、先生のものに怯《お》じない不敵な魂を感じた。他の書物など、全く眼中にないようである。それでいて先生はまた実によく書物を読んでいられる。お宅に伺うとよく読みかけの本が机の上に置いてあって傍の紙片にその中の一二の重要な句が抜き書きされていたり、或いはそれを読みながら先生が思い附かれたことなどが書き附けられている。先生のメモはいつもドイツ語で書かれていたようである。
書物に対すると同様、先生の人物評もなかなか鋭い。それも一言でずばりとその本質を云い当てる確かさは、恐ろしいほどである。他の人など、まるで問題でないといった風である。そのような不敵なところ、烈しいところがある。一面、先生にはまた実にやさしいところ、涙もろいところがある。或る日、演習の時間に一人の学生が自分の当る番であるのに予習をしてきていなかった。先生は怒って「お前のような者は学校をやめてしまえ」と突然大きな声で云われた。ところが先生の眼を見ると、心なしか潤んでいた。私は先生の烈しい魂に接すると共に、先生の心の温かさを知って、目頭が熱くなるのを覚えた。先生はその不敵さ、その烈しさを内面に集中することに努められている。そして世間に対しては万事控え目で、慎しみ深く、時にはあまりに控え目に過ぎると思われることさえある。久し振りでお目にかかると「何某はどうしているか」、「何某はどうしているか」と、弟子たちのことを忘れないで尋ねられる。先生は実に弟子思いである。またお訪ねすると、時にはいきなり「どうだ、勉強しているか」と問われることがある。そんな時、自分が怠けてでもいると、先生のこの一問は実に痛い。しかし先生が私どものことを心配していて下さる心の温かさがわかっているので「これは勉強しなければならん」と考えて、私は先生のところから出てくるのである。
大学院にいた頃であったと思う。或る日、今は亡くなられた深田(康算)先生をお訪ねして、例の如く酒が出て先生が少し酔ってこられた時であった、話が西田先生のことに及ぶと、先生は「西田君はエスプリ・ザニモオの多い人ですね」と云われたのを、私は今も思い出す。嘗《かつ》て私はそれについて『文芸春秋』に随筆めいたものを書いたことがある。実際、西田先生には何かデカルトのいうエスプリ・ザニモオ(動物精気)のようなものが感じられる。そしてそれが先生のあのエネルギーの根源であるように
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