に十分であるから。このことを私はこの数日、以前に極めて真なるものと私の信じたすべてのものをば、この一つのこと、すなわちそれについて或る仕方で疑われ得ることがわかったといことによって、まったく偽なるものであると仮定したときに、十分に経験したのである。
 ところで何が真であるかを十分に明晰に判明に知覚していない場合、もし実際私が判断を下すことを差し控えるならば、私のかくすることが正しく、私は過つことがないのは明かである。しかるにもし私が肯定するもしくは否定するならば、そのとき私は意志の自由を正しく使用していない、そしてもし偽である側に私を向わせるならば、明かに私は過つ、またもし他の側を掴んで、偶然に、なるほど真理に当りはするにしても、だからといって私は罪を免れないであろう。なぜなら、悟性の知覚がつねに意志の決定に先行しなくてはならぬことは、自然的な光によって明瞭であるから。そしてこの自由意志の正しくない使用のうちに誤謬の形相を構成するところのかの欠存が内在するのである。すなわち、欠存は、作用そのもののうちに、これが私から出てくる限りにおいて、内在するのであって、私が神から受取った能力のうち
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