方法に於いて、種々の方面から、存在の意味を現はして、存在を私たちに見ゆるもの[#「見ゆるもの」に傍点]とすると考へられ得るならば、例へばアリストテレスが語法から範疇を導いたと云ふことにも深い意味があると思ひます。私たちはこのやうな思想の本当の意味を理解するために、言葉がただ読まれたばかりでなく、また単に聞かれたばかりでなく、また到るところ言葉を見、言葉に触れることが出来たギリシア、所謂「アッチカの雄弁」のギリシア、文法が生きてをり、言葉が裸のままで公に現はれて存在してゐた――私たちのギリシア人は言葉のこのやうな存在の仕方を恐らく「アレテス[#「アレテス」に傍点]としての存在」と呼んだでせう――ギリシアの生活を思ひ浮べなければなりません。言葉がひとつの生命をもち、特殊の Genie をもつてゐることに気附くとき、私が各々の民族の言葉の中にその民族の歴史が見出されると云つても、あながち無謀でもないでせう。かの天才フンボルトが、言葉は生産されたものでなく生産であり、出来上つたものでなく活動であると云つたのは、疑ひもない真理であると思はれます。そればかりでなく言葉に対する意識[#「意識」に傍点]そのものがまた進歩してゆくのです。この意味で例へばヘルメノイティクの歴史、殊に聖書のヘルメノイティクの歴史を調べてみるのも有益な仕事であるでせう。すぐれた研究家ウーゼネルは、言語学者に必要なのは言葉の意識[#「言葉の意識」に傍点]であると云ひました。言葉の意識と云ふのは文法のかたくななる形式を習得することを謂ふのではありません。言葉の意識はむしろ歴史的意識のひとつのはたらき、しかもその最も根本的なはたらきの形式であると私は思ひます。言語学の課題は人間的な、殊に精神的な存在の全体の広さと深みとの上に拡がつてをる、従つて言語学は歴史科学の根柢的な決定的なる方法[#「方法」に傍点]である、と云つたウーゼネルの言葉には争ひ難い真理が含まれてゐると私は思ひます。言葉の意識が発達してゆく限り言語学上の interpretatio も決して終結することはないでせう。そして私には言語学者の行つてゐる recensio と interpretatio 或ひはクリティクとヘルメノイティクとを理解することが、歴史的意識の作用、歴史的認識の方法を理解する上に根本的な意義をもつてをるやうに感じられます。けれど
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