れを知っているのはよいことだ、しかしそれきりのことである」。繰り返して読む愛読書をもたぬ者は、その人もその思想も性格がないものである。ひとつの民族についても同様であって、民族が繰り返して読む本をもっているということは必要だ。それが古典といわれるものである。かくの如き古典の復刻ということは出版業者にとってもひとつの重要な意味のある仕事でなければならぬ。しかしながらまたそのようなことは我々が多くの本を集めるということと矛盾しない。公共の図書館にしても個人の文庫にしても本が多ければ多いほどよいのはもちろんだ。本は道具と同じように使うべきものであるからである。そして使うということはそれを悉《ことごと》く始めから終りまで読むことと同じでない。或る本については、単にそれがあるということ、ただその表題だけを知っているということも十分有益である。尤も度々繰り返して読む愛読書をもたない人はその余の本を如何《いか》に使うべきかを学ぶこともできないであろう。本を書く者にしても、真面目な著者であれば、彼の本が少くとも二度は必ず読まれることを希望しているであろう。アンドレ・ジードも「私は再審においてのほか勝つことを願わない」という風なことを何処かで云っていたようだ。
 どんな本を買って読むべきであろうか。既に数年を経て価値の定まった本をのみ読むようにエマーソンなどが教えている。しかしながら我々の読書欲はもっと新しいものを求め、また新知識を絶えず吸収するということは我々にとって必要である。私はそこで時々古本屋へ行って勉強するように勧めたい。本の夜店を見て歩くことなどもよい。箱入の新刊書のときにはどれもこれも同じように見えたものがここでは既にその間に区別ができている。絶版になって原価よりも高くなっているものもある。古本屋の陳列棚を見ておれば、どのような本が善い本であるかが誰にも自然に分るようになる。書物の良否についての鑑識眼は銘々の見地からその間におのずから養われる。古本屋を時々|覗《のぞ》くということは読者にとってのひとつの修養である。それは出版業者にとっても多く参考になることではなかろうかと思う。著者にとっては尚更《なおさら》のことだ。書物の倫理は古本屋において集中的に現われている。あらゆる本は古本屋において性格化している。これはもちろん値段の点からのみ云われることではない。ところで書物に対する著者の倫理とは如何なるものであろうか。フロベールがまた書いている「多く読み、多く想わねばならぬ、つねにスタイルのことを考えそして出来るだけ少く書くようにせねばならぬ、ひとつの形式をとることを求め、そして我々がそれの厳密正確な形式を見出すに至るまでは我々のうちで他の意味に変るイデーの激動を鎮めるためにのみ書くようにせねばならぬ」。多く読み、多く考え、そして出来るだけ少く書くこと、それが著者の倫理である筈である。しかし読むというにも沢山の違った仕方があるのであって、そして良く読むというには多くのエスプリが必要なのである。



底本:「読書と人生」新潮文庫、新潮社
   1974(昭和49)年10月30日発行
   1986(昭和61)年9月30日20刷
初出:「東京堂月報」
   1933(昭和8)年4月
入力:Juki
校正:小林繁雄
2010年1月5日作成
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