客観的であらうとする辞書は何よりも先づ正確でなければならぬが、辞書の正確といふこともなかなか問題である。新聞の記事は、こと、自分に関する限り、たいていどこか間違つてゐるものであるが、それが他人のことになると、悉く正確であるかのやうな錯覚を起させる。辞書もまた同様の錯覚を起させ易い性質をもつてゐるのである。
 辞書の客観性といふことは一見簡単な事柄のやうで、実は複雑な問題である。語学や自然科学の辞書のやうな場合にはともかく客観性の基準が定められ得るにしても、社会科学、更に哲学になるとそれはなかなかむつかしいことだ。従つて勢ひ術語の単なる説明に終つたり、種々の学説をただ形式的に分類して示すに止まつたりすることになる。それが「辞書的客観性」といふものであるのかも知れないが、それが真の客観性であるかどうかは、認識論的にやかましくいへば、いろいろ問題があることであらう。殊に多数の執筆者に依頼して辞書を編纂するといふ場合、統一が失はれないやうにするためには、各執筆者は自分の見解は棄てて、字句の解釈、学説の分類の程度に止まらざるを得ず、従つて特性のないものになつてしまふのである。内容の統一の点からいへば、一人の人間で全部の項目を書くとか、或る一定の学派に属する者のみが執筆するとかといふことが必要である。その場合には「辞書的客観性」は失はれるであらうが、読んで却つて面白く、また却つて有益でもある辞書が作られるであらう。さういふ意味で、弁証法的唯物論を基礎として出来たソヴィエットの百科辞典の如き、興味深いものがある。多数の学者の執筆に成る辞書においては各項目毎に署名して責任を明かにすることが例になつてゐるやうだ。然るに現在日本の多くの辞書を見ると、署名しなければならぬほど自己独自の見解を記したものは稀で、その殆どすべてが辞書的客観性を目標として書かれてゐる。外国の辞書においては署名したものはそれが堂々たる一個の論文で、研究的価値を持つてゐるのが多い。辞書の原稿にせつかく署名する以上、辞書的客観性を超えてかくの如くありたいものだと思ふ。
 辞書的客観性を目標とした辞書のほかに、日本においても、もつと主観的な辞書が出来ても好からう。それは辞書を読み物として取扱ふ私などの特に望むところである。自己独自の立場に立つて、一人で辞書を書くといふやうなことが新たに試みられても面白からう。ヴォルテールの辞書もやはり辞書である。トマス・アクィナスの『スンマ・テオロギカ』も辞書と見ることができるし、ヘーゲルの『エンチクロペディー』も或る意味で辞書であるといはれないことはない。概論書や入門書の如きものは多く出てゐるが、かうした形でなくて、それを辞書の形で書くことを企てるのも面白からう。辞書のもつてゐる啓蒙的意義は大きい。フランスのアンシクロペディストのやうな著作家の団体が生まれてくることも意義がなくはなからうと思ふ。
 この頃折にふれてベールの辞書を開いてみてゐるので、それに関連して辞書についての感想をここに書き留めておく。



底本:「日本の名随筆 別巻74 辞書」作品社
   1997(平成9)年4月25日第1刷発行
底本の親本:「三木清全集 第一七巻」岩波書店
   1968(昭和43)年2月
入力:小原遼
校正:小林繁雄
2008年1月19日作成
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