辞書、英和辞典でさへ間に合ふものを、わざわざウェブスターやセンチュリーを引かせることは、あまりにペダンチックではないか、などと云つて、私どもは内々不平であつた。しかし今にして思ふと、もしあの当時、辞書が読み物であるといふことが分つてゐたら、私どもはどんなに多くの利益を得てゐたことであらう。
昨年の秋、私はピエール・ベールの『歴史・批評辞書』を手に入れることができた。これは三巻から成る第二版で、一七〇二年の発行である。別に『補遺』一巻(一七二二年)がある。前者はロッテルダムで、後者はジュネーヴで出版されてゐる。この辞書の第一版は一六九五―九七年に出てゐるが、ヴォルテールの哲学辞書は一七六四年の出版であるから、私の持つてゐる第二版にしても、それよりもかなり前のものである。ベールはフランス啓蒙時代の批評家・哲学者で、後にロッテルダム大学教授となり、デカルト学派に属するといはれる。私の手に入れたベールの辞書は何処をどうして渡つて来たのであらうか。或ひは長崎あたりへ来てゐた宣教師でも持つてゐたのではないかと想像される。ひまな時に読んでゐると、ベールの辞書もやはり面白い、筆者の思想的立場が出てゐるからである。
読み物として面白いのは、云ふまでもなく、筆者の見解を自由に書いた主観的な辞書である。私は辞書の歴史について詳しいことは知らないが、現代の辞書は、客観性を目指して発展して来たやうである。これは辞書としては確かに進歩であるに相違ない。その記述の仕方も辞書的といつた一種の型が出来て、正確とか簡潔とかを目的としてゐる。だがその代りに最近の辞書は一般に乾燥無味になつた。これは便利であるにしても、深味はなく、個性にも乏しいのである。学問的に見ても、この頃の辞書は研究的であるよりも、学界の通念を要約して述べるといふことが主となつてゐるやうである。かやうな辞書が必要であることは云ふまでもなからう。
しかしこの種の客観的な辞書の必要は教科書の必要とほぼ同じである。自分が専門にやつてゐる学科については、辞書といふものは案外役に立たないのではないかと思ふ。他の方面については、辞書はなるほど有益ではあるが、それは自分がそれについて知らないからである。辞書に依つてものを知らうとしても、客観的な辞書といふものは、だいいち面白く読めない。即座の必要には間に合ふが、永く続けて読ませるものではない。
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