がドイツ文化の発展に及ぼした影響などを想い起すがよい。何でも原書で読まねばならぬと思い込んでいることが如何《いか》に無意味であるかが分るであろう。
 然るに日本の学者の多くは何故《なぜ》かそのように思い込んでいるのである。彼等は飜訳書を軽蔑することをもって学者の誇であるかのように考えている。なるほど、どのような飜訳も、飜訳たるの性質上、不正確、不精密を免れない。誤訳なども多い。しかしこのような欠点は語学者や註釈学者にとっては最も重大な性質のものであって、自分で考えることを本当に知っている者にとっては何等妨害とならないのみか、そのような不正確、不精密、誤訳から却って面白い独創的な思想が引出されている場合さえあるのである。これは少し綿密に思想の歴史を研究した人には容易に認められ得ることである。
 私は固《もと》より誤訳の出現を希望する者ではない。寧ろ正反対である。しかし私は今日学問する人が、先ずもっと我々同志の書いたものに注意すると共に、次に日本語になった飜訳書をもっと利用することを希望せずにはいられない。原書癖にとらわれて飜訳物を軽蔑し、折角相当な飜訳が出ているのに読まないで損をしている
前へ 次へ
全5ページ中4ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
三木 清 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング