避け、寧《むし》ろ俗語を活用しようとしたのは有名な事実である。このようにして、全くドイツ固有な言葉の意味を有するかの「ガイスト」(精神)の哲学が完成されるようになったのである。
 哲学者ライプニッツもその必要を大いに認めた飜訳というものの意味は、外国語を知らない者にその思想を伝達することに尽きるのではない。思想と言葉とが密接に結合しているものである限り、外国の思想は我が国語をもって表現されるとき、既にもはや単に外国の思想ではなくなっているのである。意味の転化が既にそこに行われている。このときおのずから外国の思想は単に外国の思想であることをやめて、我々のものとして発展することの出来る一般的な基礎が与えられるのである。飜訳の重要な意味はここにある。このことを考えるならば、飜訳でものを読むということは学問する者にとって恥辱でないばかりか、必要でさえあることが分る。
 支那や日本に於ける仏教の発達の場合を見よ。この独自な発達は原典ではなく、却《かえ》って飜訳書の基礎の上に行われたのである。或いはポエチウスによるアリストテレスのラテン訳が中世のスコラ哲学の発展に与えた影響、或いは聖書のルッテル訳がドイツ文化の発展に及ぼした影響などを想い起すがよい。何でも原書で読まねばならぬと思い込んでいることが如何《いか》に無意味であるかが分るであろう。
 然るに日本の学者の多くは何故《なぜ》かそのように思い込んでいるのである。彼等は飜訳書を軽蔑することをもって学者の誇であるかのように考えている。なるほど、どのような飜訳も、飜訳たるの性質上、不正確、不精密を免れない。誤訳なども多い。しかしこのような欠点は語学者や註釈学者にとっては最も重大な性質のものであって、自分で考えることを本当に知っている者にとっては何等妨害とならないのみか、そのような不正確、不精密、誤訳から却って面白い独創的な思想が引出されている場合さえあるのである。これは少し綿密に思想の歴史を研究した人には容易に認められ得ることである。
 私は固《もと》より誤訳の出現を希望する者ではない。寧ろ正反対である。しかし私は今日学問する人が、先ずもっと我々同志の書いたものに注意すると共に、次に日本語になった飜訳書をもっと利用することを希望せずにはいられない。原書癖にとらわれて飜訳物を軽蔑し、折角相当な飜訳が出ているのに読まないで損をしている
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