悪魔の象徴である。要するに反省はセンチメンタリストの放蕩でもなければジレッタントの遊戯でもなく、謙虚なそしてそれがために勇敢な心のまじめな労作である。
さて私の反省する心の前にはいかなる光景が展開されるであろう。いやしくも真に生きようとする人が自己の衷に見出さずにはいられない二つの心の対立もしくは矛盾の体験を語るものとして、私がしばしば引用したことのある二つの尊き書物からの章句をいままたここに掲げることは、少くとも私自身の反省にとっては非常に有益なことであると思う。ロマ書第七章においてパウロはいう、「われ内なる人については神の律法《おきて》を楽しめどもわが肢体に他の法《のり》ありてわが心の法と戦い我を虜《とりこ》にしてわが肢体の内におる罪の法に従わするを悟れり。噫《ああ》われ悩める人なるかな。この死の体より我を救わんものは誰ぞ。」またファウストを読む人は誰でも次の句を何の感動をも受けることなしに読み終ることは出来ないであろう。
[#ここから引用文、2字下げ、本文とは1行アキ]
Zwei Seelen wohnen, ach! in meiner Brust,
Die eine will sich von der andern trennen;
Die eine halt[#「halt」の「a」はウムラウト(¨)付き], in derber Liebeslust,
Sich an die Welt mit klammernden Organen;
Die andre hebt gewaltsam sich vom Dust
Zu den Gefilden hoher Ahnen.
(あゝ。己の胸には二つの霊が住んでいる。
その一つが外の一つから離れようとしている。
一つは荒々しい愛惜の情を以て、章魚《たこ》の足めいた
搦《から》み附く道具で、下界に搦み附いている。
今一つは無理に塵を離れて、
高い霊どもの世界に登ろうとしている。)
[#ここからポイントを小さくして地付き]
(ゲーテ『ファウスト』第一部一一一二―七 森林太郎訳)
[#ここで引用文終わり]
私は今|湿《うるお》える心をもってしみじみと自己の姿を眺めなければならない。私の頑健な肉体が限りなく私を不幸にする。私の眼は鷲のように漁ろうとし、私の口は虎のように貪ろうとし、私の手は獅子《しし》のように捕えようとする。私の肢体をとおしてあくことなき活動を求める私の強い盲目な本能と情緒とが私を憂鬱なものにしてしまおうとしている。敬虔な人々の断食と祈とについて読んで感動されて、一般に食をとるということ、殊に私のように余分に贅沢な食をとるということを深い罪のように意識した私は、一時間も経《た》たないうちに友人に誘われるままにレストーランで馬のように食っていた。あるとき一人の聖者の伝を目にして感激のあまり私は寮を飛び出して、広い武蔵野を限りもなくさまよった。私は彳《たたず》んだり寝転んだり仰いだり俯したりしながら、到る所私の過去の生活の罪の意識に責《せ》め苦しめられつつ、ただ何ということもなしに自然《ひとりで》に祈っていた。秩父の山に落ちる赤い夕日が一面に野を染めて木々の梢には安静が宿るとき、私は魂の故郷《ふるさと》への旅人のような寂しいけれど安らかな気持につつまれて小さい声で祈の言葉を口にした。その夜美しい月は生の悩みを喘《あえ》ぐ地を明るく照らした。朝飛び出したまま少しの食事もしていなかったが、私はその夜は徹夜して野をさまよいつつ私の罪の浄めに従おうと決心した。とある小川の橋の上に立止ったとき、私は川に映る月の影を見て何と思ったか、それから十五分間ばかり大声で叫んでいたことをいまに至ってもはっきりと思い起すことができる。けれどサタンの誘惑はやって来た。私の当途《あてど》もない彷徨が餓え渇《かつ》える私を田舎《いなか》の小さい料理屋の前に導いたとき、私は一本のサイダーを求めようとした。中から出て来た女が私を無理に腰を卸《おろ》させさらに座敷へ上らせた。疲れていた私は初めは疲労を回復する心組でその誘惑に従ったのであるが、サイダーの代りに持って来られた酒が私の体を酔わすとともに私の魂をも麻痺させずにはおかなかった。無理やりに飲まされた二本目の酒が終ったとき、私は自ら進んで三本目の酒を求めていた。ついに酔い崩れて前後不覚にその場に倒れてしまった。けれども世界に光を齎らした日の出が私の心には光明を持来して私の眼からは悔恨の涙がとめどもなく流れた。私はかつて夜の半《なかば》を海に向って自己の醜悪を嘆いた。あるときは小室に閉カ籠って終日を自己の心の分析に費した。しかしながら私の生活はそれらにかかわらずしてメフィストフェレスによって導かれることをやめなかった。私の健康な肉体は一方では私を悩しく醜い活動にまで追いやるとともに、他方では私の純粋な魂がなそうとする活動を妨げようとする。私の太い血管を勢いよく循《めぐ》る血の快さが、私の清く正しき心に気持のよい寝床を与えている。
私は傲慢な態度をもって他の人々を蔑みつついった、「君たちは虚栄心に支配されている。金銭や名誉が何になるのだ。本当に自分自身に還って生きない生活は虚偽の生活に過ぎない。」なるほど、私のいうことは言葉どおりには正当である。けれども私の言葉にはそれを生かす魂の純粋が欠けていた。「たといわれ諸※[#「※」は「二の字点」、「々」と同じ、面区点番号1−2−22、61−13]の人の言葉および天使の言葉を語るとも、もし愛なくば鳴銅《なるかね》や響く※[#「※」は「金へん+「秡」のつくり」、第3水準1−93−6、61−14]《にょうはち》のごとし」といわれたように、それがいかに正しく、よく、美しき言葉であり忠告であったにしても、もしそれが謙虚な心と愛とから出たのでなかったならば、結局無意味なことであるに相違ない。
しかしながらさらに悪いことは、そういう私自身がいっそう強く虚栄心に燃えていたことである。他人の眼にある塵を見て自己の眼にある梁《うつばり》を見ないのか、私はこう自分自身に向って叫びたい。財宝や栄爵を虚栄として退けた私は、自分の書物が広い世界において読まれ、永い時代に亘って称讃されることを求めはしなかったか。華美な住宅、贅沢な衣服、賑かな交際、騒しい娯楽が私が耽ることを好んだ空想の中に織り込まれることはなかったか。金銭や爵位やを卑んだ私の言葉の間には、自分がそれらのものを得る能力がないという自覚から生れた嫉妬の心がひそかに潜んではいなかったか。否、否、自分の知らないことを知っているかのように語ったり、自分の感じないことを感じているように話したり、自分の欲していないことを欲しているように告げたりすること、要するに自己の魂の奥底において体験しないことを口にするのがそもそも虚栄を求める心ではないであろうか。おまえの良心がおまえを叫ばさせずにはおかないまでおまえの唇に迫るまで、おまえはへりくだり虚くして待つがいい、そのときこそおまえは権威ある人として語り出でることができるであろう。
私は殊に多く愛について自ら考えまた人に教えた。けれど私の利己心や他を憎む心が私が愛から出たものとして考えた行為の裏においてさえせせら笑いをしていなかったか。猜疑と嫉妬とが私の心から全然放逐されていると保証してくれる人があるであろうか。媚《こ》び諂《へつら》う心から生れた親切や同情やを私自身において経験しなかったといえようか。人に矯《あま》えるような愛、人に強《し》いるような愛、人を弱くしようとする愛、人をたかぶらせる愛、それらが私の生活になかったといえるか。私が最も純粋な愛としたものにおいてさえ、それが自己の優越の感じに擽《くすぐ》られようという動機によって濁らされていなかったと誇り得ないではないか。純粋で従って快活でありやすい友人や隣人に対しての愛において、すでに利己心や憎悪心や諂諛《てんゆ》や傲慢がそれの明るい拡りゆく自由さを失わせていたとすれば、婦人に対する愛や交りが本当に純潔であろうなどとは誰も信じないことである。私は二人の女において恋愛の関係に立ち、数人の女に対してそれに近い気持を味って来た。私の性的が動いて暗い影をそれらの恋愛や交際に蔽い被せた。かつて私を支配したデカダンがそれらにおいて頽廃の飽満を求めた。私の気紛れ、芝居気、皮肉、洒落《しゃれ》が強いて作った快活さが、エロティッシュの気味の悪い微笑《ほほえみ》や悩める本能の醸した暗く寂しい憂鬱と混って、非常に複雑な醜悪をそこに合成した。愛するものによって自己の魂を高めもしくは愛するものの魂を純粋に成長させてゆこうとする心よりも、愛する者によって自己の醜い心に媚びもしくは愛するものを誘惑して自己のところまで引きおろそうとする心が私の中に勝ってはいなかったか。常に否定する精神メフィストが私を征服して走せ廻ってはいなかったか。引込思案な臆病、小賢《こざか》しくて功利的な知恵、それよりも根本的には私を善良な青年とみていた世間の評判が、ただ私を不道徳の実行者にならしめないのみであった。
けれども積極的に善をなさないのは必然的に消極的には悪をなすことではないか。世のいわゆる悪をなさずまた積極的に善をなすこともない無気力で怠惰な精神よりも旺盛な心をもって悪に向って活動する精神の方が秀れているとはいえないだろうか。悪魔は怠け者より神に近いに相違ない。ただ悪魔が神になれないのは彼は悪を矜《ほこ》って、へりくだる貧しき心を欠いているからであろう。私は幾度となく娼婦の姿を胸に抱いたのではなかったか。十八の夏初めは正しい動機から退けていた女に盲目的な本能のために近づけられて、夫ある女と通ずるという最も忌わしい罪悪にまで陥ろうという危機をやっと脱することができたのは誰であったか。
虚栄心や利己心や性的本能が、あるときは私を呵々大笑させ、あるときは私を沈黙と憂鬱とに導きつつ私の生活を落着のない、流るるような自由と快活とを失ったものにしていたのは事実であるが、他方においては傲慢な心から発した弁解する心と神を試みる心との二つの心が私の生活を激越な、安静のないものとした。煩悩具足の私たちは罪を作らずにはいられないような状態にいる。いかに熾烈《しれつ》な善を求める心でもこの世界では悪を全く避けることができないような有様である。私たちは本当に弱い葦のようなものだ。Es irrt der Mensch,so lang er strebt.(人は努めている間は、迷うに極ったものだからな。 [#ここからポイントを小さくする]ゲーテ『ファウスト』第一部三一七 森林太郎訳[#ポイント下げ終わり]) しかしながら真に罪悪といわるべきものは、私たちの悲しい運命が私たちを陥れずにはおかない罪悪そのものよりも、かかる罪悪を小賢《こざか》しい智恵を弄して弁護し弁解しようという傲慢な心である。メフィストフェレスが人間を嘲笑《あざわら》っていった言葉、
[#ここから引用文、2字下げ、本文とは1行アキ]
Er nennt's Vernunft und braucht's allein,
Nur tierischer als jedes Tier zu sein.
(人間はあれを理性と謂ってどうそれを使うかというと、
どの獣よりも獣らしく振舞う為めに使うのです。)
[#ここからポイントを小さくして地付き]
(ゲーテ『ファウスト』第一部二八五―六 森林太郎訳)
[#ここで引用文終わり]
は、かくのごとき弁解するこましゃくれた[#「こましゃくれた」に傍点]智恵を指していったものであろう。何故に私たちは私たちの罪を素直にそのまま受け容れることをしないで、それを見苦しい態《ざま》をしながら弁解しようなどとするのだろう。なぜ素直な心の安静をすてて傲慢な心の焦躁を求めているのだろう。自己の行為の騒々しい弁解は、それが正当になさるべき権利をもっておる場合においてすら、決して相手を十分に説服することができないばかりでなく、自分自身の心にも平和
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