かえって自己の内に還り見出される点にある。語られる哲学の根柢は語られざる哲学にある。そして語られざる哲学は必然的に虚しくへりくだる心の純粋において成立するのである。Les grands pensees[#「 pensees」の二つ目の「e」はアクサン(´)付き] vient de coeur.(偉大な思想は心情から生まれる。 ヴォヴナルグ『省察』八七)真の生ける真理を与うる哲学は語る口に見出されずして語らざる魂において成長する。哲学に関する第二の誤解はこれとあたかも反対した側面からすなわちそれがあまりに人生の実際と接近して感傷的もしくは病的になって、われわれの論理的要求から遠ざかっておるという批難においてぶっつかるものである。この考えを懐く人たちの想像する哲学者は、蒼白な顰《しか》め面をした、人生や自然におけるよきもの美しきものに無頓著な、すべての現実的に対して懐疑的もしくは厭離的になった人である。彼はやたらに涙を流す人かあるいは一滴の涙さえ涸《か》れ尽してしまった人かである。
 しかしながら私の考えるところでは、哲学者にはいかにも感情が必要であるが、それは純化され透明にされない情緒ではなくして、永遠なる理想や価値や理念やに対する感激である。情緒と感激とは根本的に性質の異なったものであろうが、道徳を本能の一種と見做《みな》す心理学的立場から、それらが同一根柢にまで還元されることを許すならば、感激とは永遠なるものに関係する限りの情緒である。情緒はそれに伴う不安と焦躁とからわれわれを限りなき盲目的な運動にまで駆るに反して、感激はそれに随う安静《ルーエ》と平穏とからわれわれを光に照らされた、限りある従って完全な活動にまで赴《おもむ》かせる。それゆえに情緒の運動が自ら外部的、身体的であるに反して、感激の活動は必然的に内部的、精神的である。前者は濁れる涙を猛烈に外に注ごうとするに反して後者は輝ける涙をもって自己の魂を洗い浄めようとする。しかのみならず私が永遠なるものとよぶところのものに純粋に概念的にして論理的なる真理が含まれていることを思い、またかくのごとき純粋に知識的にして思弁的なものに対してもはなはだ高き程度の感激があり得ることを認め、もっと根本的には情緒と感激との正当な区別を誤らない人は、哲学が一方では私たちの感情的要求を決して排斥するものでなく、他方では私たちの論理的要求を否定するものでないという二つのことが必ずしも矛盾しないことを容易に発見し得るであろう。哲学はいつでもフィロゾフィーレンする人にのみあり、またフィロゾフィーレンする人によってのみ正しく理解され得るものである。
 私がいま与えた解決にして誤っていないならば、私は真の哲学者の資格として次の二点を挙げても間違ってはいないであろう。第一、論理的思索力の鋭さと強さ。第二、永遠なるものに対する情熱の清さと深さ。このことと関係して私が哲学者と呼ばれておる人間を三つの型に分つとしても必ずしも虚妄として退けられないであろうと思う。すなわち頭のよい哲学者、魂の秀れた哲学者、および真に偉大なる哲学者がそれである。第一の型の人々を一体哲学者と呼んでいいのかどうか私は知らない。なぜなら彼らは真の哲学者の資格として私があげた第一の条件としての論理的思索力の鋭さと深さについて、単に鋭さを示すのみであって深さをもっていないからである。学校の秀才といわれるものの特質を担ったいわゆる講壇的哲学者には頭があっても魂がない。そして深さは、それが論理的、概念的に関係しておる場合においてさえ、いつでも魂に本《もと》づいておるからである。彼らは声高く教えようとする、彼らは堆《うずたか》き文献を作ろうとする。論理の巧妙と引証の該博と討究の周到とは彼らが得意気に人に誇示するところである。しかし惜しいことには彼らにはそれらの秀れたるものを統一して生かしまた深める魂が欠けている。いわば彼らには積極的がない。彼らは人の驚きを買うことができても人の愛を得て人を感激せしめることができない。ファウストがワグネルを喩《さと》したそのままの言葉がちょうど適当であるのが彼らの哲学である。
[#ここから引用文、2字下げ、本文とは1行アキ]
Doch werdet ihr nie Herz zu Herzen schaffen,
Wenn es euch nicht von Herzen geht.

(どうせ君の肺腑から出た事でなくては、
 人の肺腑に徹するものではない。)
[#ここからポイントを小さくして地付き]
(ゲーテ『ファウスト』第一部五四四―五 森林太郎訳 岩波文庫)
[#ここで引用文終わり]
 彼らは人を教えもしくは説服しようという心に支配されていて、その根柢になくてはならない虚しくへりくだる心をもっていない。よき語られざる哲学の学徒のみがよき語る哲学の学徒たり得る。彼らの学問は恐らく地に這う葛《かずら》のように広く拡ることができても、天に向って雄々しく伸びてゆくことができないであろう。なぜならば学才を伸ばしもしくは深めることができるものはただ秀れた魂のみであることを私は信ずるのであるから。彼らが、しばしば起るように、堕落して、純粋な知的興味からでなく名誉心や好奇心から、あるいは少くとも習慣的に雑誌や書物の数を殖やしたり文献の量を増したりするようになれば、彼らは単にそれによって自己の魂を高めることができないばかりでなく、またそれがために後に出ずべき正しき研究の道を塞ぎもしくは同僚や後輩の有効に用いらるべき時間を浪費する。こうなれば彼らは意識せずして不道徳を行いつつあるのである。学者的良心はいかなる場合でも鋭敏でなければならない。
 魂の秀れたる哲学者とは永遠なるものに対する情熱の深き人々である。彼らの心は永遠なる理想や価値、真によき宗教や哲学や道徳や芸術や学問の憧がれとそれらに対する努力とにおいて喜びに盈《み》ち溢れつつ悩んでいる。彼らは外に向う心よりも内に還る心、人を教えようという心よりも自ら求めようとする心が真の哲学の根柢として尊ぶべきものであることを知っている。彼らは語られる真理よりも語られざる真理をさらに重んずる。ただ悲しいことには彼らは論理的な思弁に短であるがために彼らの清く深い体験を概念的に組織し統一する力を欠いている。けれど彼らの正しき心は、「自己の能うことはどこまでも研究し、自己の能わないことは静かに尊敬する」ことを心得ており、正直と無邪気とを失うことがいかに悪いことであるかを知っておるから、彼らは自己の魂とともに他人の魂をも高めることができる人々である。教えようとしない心は最もよく教うる心である。へりくだる心は最も鋭く人に迫る心である。いかにも彼らの哲学は論理の厳密と連絡の緊密とを欠いているであろう。けれどもそれらのすべてにかかわらず、彼らの哲学はふしぎに人を感動させずには措かないものをもっている。規則正しい序列を作って寄せて来る数限りない波よりも突然の風に天に冲するばかり高まった唯一つの波がいっそう速にまた確実に巌を砕く力を具えているのである。
 真に偉大なる哲学者とは、私が上にあげた二つの条件を円満にして高き程度の調和において兼ね具えた人に与えらるべき名である。彼の厳密な概念の間には永遠なるものに対する無限の情熱が蔵《かく》されている。彼の明るい論理の根柢には見透すことのできない意志がある。永遠なるものの希求に殆んど無意識に悩んでいる彼の意志は限りない闇と憂鬱《ゆううつ》との海を彼の性格の奥底に湛《たた》えておる。けれどその闇は絶対の無でなく積極的なるものに発展すべき運命を有するものとしての否定である。その憂鬱は持たざるものの憂鬱でなく生まねばならぬものの憂鬱である。あるいはヒステリー女《おんな》の憂鬱ではなくて健康な孕《はら》み女《め》の憂鬱である。すなわち彼の衷に秘められた闇と憂鬱とは光と快活とを生みそして育てるところの闇と憂鬱とである。そのアーヌングに充ちた闇の中から時に巨光が輝き出て広い行手を示す。その深い憂鬱の海から華かな大きな花が咲き出でる。かくのごとく深くして根強い魂が発展して、自らとった論理の精緻《せいち》や統一の完全こそ真に偉大なる哲学には決して欠けてはならないところの形式である。剛健な、それゆえに悩める魂の力強さが内面的に要求する論理は、いわゆる思想家と自称する人々が排斥するように哲学に不必要なものではなく、これがなくては真に偉大なる哲学があり得ないようなものである。かくて本当の哲学者は本当に夢みる人である。なんとなれば、彼の闇と憂鬱とは意識的にせよ無意識にせよ永遠なるものと関係しておるのであるから、その限り必然的に夢みずにはいられないような種類のものであるからである。無邪気さと純粋さとはそれがいかなるところにあろうとも、いつでも子供のように夢みている。世なれた利口な人たちは親切そうに私にたびたびいってくれた、「君はトロイメル(夢想家)だ。その夢は必ず絶望において破れるものだから、もっと現実的になり給え。」私は年も若いし経験も貧しい。けれど私の心は次のように私に答えさせる。「私は何も知りません。ただ私は純粋な心はいつでも夢みるものだと思っています。」
 私は私が観念し、そしてもし私が恵まれるならばそれでありたいような哲学者について語った。私はそれがはたして正しい真理であるか、また一般の人々が求めておるところのものであるか知らない。ただ私の要求するところを通俗な言葉で最も簡単に現わすならば、私が根本的に求むるものは哲学を知ることではなくして哲学を生きることである。
 さて私がいま上に考えた哲学者の三つの型に相応して、私は哲学を現実的、浪曼的、古典的の三種類に分ち、それの特性をめいめい現実的、超越的、フマニスティッシュ humanistisch として考えることができるように思う。けれどこれらの形式的な分類や区別について立入った論議を試みることは、私の最初の目的でもなくまた私の現在の心の状態にも適しからぬことである。

     七

 私の哲学的生活の発展についてはすでに語った。私はいま私の芸術的生活の変遷に関して前と同様に短い思い出を書いてみたい。そのことがこの一篇の統一と調和とを破壊しはしないだろうか、これまでにおいてでさえ、あまりに多かった全体の発展を妨害しそうな挿入が実際それを妨害するまで増されはしないだろうか、という懸念が一度私を躊躇させた。しかしながら体系を求めるために私はこの一篇を始めたのではない。私の仕事の目的は私が何であり何でなくそして何でありたいか、もしくは私が何をもち何をもたずそして何をもちたいかを正直に考えてみることにある、私は連絡のある記述よりも、私のいまなしつつある仕事が私の生活を全く新しくしてくれることを望んでいる、これらの思想が再び私を大胆にした。そればかりでなく私が私の心の奥底で考えたり感じたりしたことのほか一切を書かないという正直をさえ失わないならば、そのことがたとえ外形上の統一を破壊するにしても決して精神上の統一を破壊することはないだろう。
 私の芸術的生活は無論私の哲学的生活よりずっと以前に始った。確か高等小学の一年、今の制度にすれば尋常科五年のことだったと覚えている。自分ではひとかどの俳人のつもりでいた私のクラスの担任の先生が、作文の時間に俳句の作法を例をあげたりして説明して後、生徒に句作をさせて出させたことがあった。そのとき私が書いて出した句が中で俳句らしいものになっていたと見えて、次の時間にそれを黒板に写したりなんかして、私に「あなたには確かに才能がある。これから後しっかり勉強し給え。高浜虚子という俳人がいるが、その人の名は清[#「清」に傍点]といってあなたと同じだから、あなたも同じ筆法で『怯詩』と俳号をつけてはどうか」などといった。その先生は俳号さえもてばそれでもう立派な俳人のように心得る種類の人であった。そしてその頃私は少年世界[#「少年世界」に傍点]や日本少年[#「日本少年」に傍点]の投書欄の愛読者だった。私が
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