のでもない。哲学はただ実際にフィロゾフィーレン(哲学思索)する人、事実哲学に生き哲学を生きた人にとってのみ存在する。厳密な論理を辿る学問でありながら他の特殊科学と異なる特質、もしそれに含まれやすい誤解を除いて考えるならば、哲学があらゆる学問の王であるゆえんは、実にこの点に存するのである。さらに他の人々は気遣わしげに問う、哲学が論ずるような普遍的なもの、論理的なものはわれわれの人生には没交渉でありなんらの影響をも与えないものではないかと。これもまた疑われるとおりである、もし彼が現実についての反省されない粗雑な観察や認識に満足してそれの根柢を究めようとしないとき、事実経験され感受されるもの以上に超越しようとする要求をもたないとき、彼にとっては論理的、普遍的を取扱う哲学は、むしろ有害なものであるか、高々無聊なる時間をやる閑事業であるかに過ぎないであろう。しかしながらこれに反して自分自らフィロゾフィーレンする人、すなわち論理的なるもの、普遍的なるものに関して苦しく力強き思索に実際生きた人にとってはこれらの疑問ほど無意味なものはない。彼らにとってはかかる論理的なるもの普遍的なるものこそ人生を生きるために、いやしくも人生を正しく深く美しく生きるためにはなくてはならぬものである。イデーに生きまたイデーを生かそうとする生活、イデーの力に対する希望と信頼、そこに哲学的生活の本質はあり、そしてかかる哲学的生活からのみ真の哲学は誕生する。真理の勇気と精神の力の信仰とは、へーゲルがいったように哲学の第一の条件である。
以上の二つの疑問に答える共通な一つの答、すなわち自らフィロゾフィーレンせよということは、以下の、前にあげた疑問に対応もしくは対立する二つの誤解を防ぐためにも十分であるであろう。私がここにいう二つの誤解の第一のものは、哲学をたいへんに高遠で深邃《しんすい》なことと考えて、かような哲学をちょっとでも齧《かじ》ることを非常に偉大なことと心得て思いあがる人々に属するものである。人々が幽玄とし迂闊とする哲学を知っておくことは自己を他の人々から標異せしめ、自己の虚栄心を満足させるために最もつごうのいいことだと彼らは考える。あるいは彼らは哲学の秀れた点は主として人々が高遠とし深邃として遠ざけるちょうどその点にあると思惟する。けれども哲学の貴い点はそれが自己の外に尋ね求められるものでなく、
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