るならば、それはまだ本物でないか、まだ生れたばかりで力が足りないかのいずれかでなければならない。もし前者であるとするならば私は私の中に感ずるよきアーヌング(予感)に従って本物を見出すことに努力しなければならないし、もし後者であるとするならば、私はそれを培い育ててゆくことに骨折らねばならない。いずれにせよ懐疑や否定があり得ないほど現実の世界はよき状態に達していないのは事実である。そしてへりくだる心とは弱き心でなくして必然に強き心である。私はあまりに安逸を求め過ぎている。その門は大きく、その路は広く、これより入る者多きもこれを選ぶ人は悉く滅びに至るであろう。才能もあり智恵や徳もあった多くの人たちでさえ、もっと険しい道を通って来たのに、それらをもっていない私が安全な道に由って完全に至ろうということほど考え難いことがまたとあるであろうか。私は決して苦しみを恐れてはならない。

     五

 私と哲学との関係は上に述べたことと関連してやはり三段階を経て発展した。よくあるように私も最初は哲学というものは非常に高遠で奇抜なもののように考え、そしてそのような深邃なもの新しいものを知ろうという好奇心と、そのような人が困難とするところのものを自分は理解し得ることを示そうとする虚栄心と、もっと根本的には貪《むさぼ》ってあくことを知らない知識慾とから哲学に向った。およそ哲学と名のつくものは唯その名のためにたいへん偉いもののように思われた時代が私にも最初にやって来た。その頃私はなるべくたくさんの哲学者の名を暗記しようとしたり、またそれらの哲学者の書いた書物の題をできるだけ多く記憶しようとした。私は単に哲学者の名やその書物の題を知りもしくはその書物を買込み、高々それらについての簡単な紹介かあるいはその書物から断片的な章句を知れば、もうそれだけで自分もひとかどの哲学者になったつもりで思いあがっていたらしい。私はそれの正当な解釈も知らず、またそれが全体の哲学体系の中でいかなる位置と意味とを占むべき句であるかも知らないで、いたずらに先行思想家の言句を喋り廻った。スペンサー曰《いわ》く、ミル曰く、ショーペンハウエル曰く、カント曰く、などということがたくさんにできれば私は得意であったし、またそんな断片的な知識で人を驚かすに十分であると信じていた。けれど真の哲学は他人相手の仕事ではなくして自己の魂の真
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