権利ももたず、またそれを欲しないはずの懐疑主義はそれが語られ主張され、さらにはそれが他を弁明し擁護するに従ってますます悪くなる。私が悪事をなしたとき私の魂は悲しんだ。けれど誰かが私の悪を詰責しようとしたとき私の傲慢な心は答えた、「一体何が善であり悪であるのか。伝統や因襲やに束縛されている人のほかは誰だって道徳の標準を示し得ないのだ。」何人も正直に考えるときには懐疑主義と自然主義との間になんら必然的な論理的連絡もないことを容易に発見するであろう。ただ自己の情慾に従って生活する自然主義者といわるるものの多くが懐疑説をもって自己の悪しき生活の弁護の具となしやすい事実は、いかに懐疑が徹底的にしかして正しき動機をもって始められ難いかを語っている。真の懐疑は単に古きものや一般的なるもののみでなく新しきもの、特殊的なるものにも向けられ、一切の外的と他律的とを排して純一なる内的と自律的とに向う努力において成立するのである。あるいは単に自己以外のもののみならず自己そのものをさえ疑い否定する努力において初めて見出されるのである。私たちが徹底的な懐疑と呼びうるものは、実にかくのごとき懐疑である。それゆえに徹底的な懐疑とはすべてのものを殺し、従って自己をも殺すことである。かくのごとき懐疑の後に再びすべてのものを生かし、従って自己をも生かすことができるか否かは、実際かくのごとき懐疑に生きた人のみが体得し得ることであろう。疑いを征服する仕方は疑いの対象となるものを悉《ことごと》く否定してしまうよりほかにはない。懐疑が正当に結びつき得るものは一部分の否定ではなくして全体の否定である。懐疑の完成は使徒パウロが「われもはや生けるにあらず、キリストわれにおいて生けるなり」といったところにおいて見出されるのである。
自己の否定する心の犀利《さいり》を矜ったり、いたずらに他と標異することを好んだり、もしくは自己の不道徳な生活を弁護したりすることが懐疑の正当な動機であることができないのは明白なことである。懐疑は論理をもって戯れることではなくて魂のまじめなる悩みである。懐疑の正しき動機はかようにして、よき生活への意志でなければならない。現実の世界もしくは自己に満足せずしてさらに価値多き世界、もしくは自己に憧憬する心において初めて正しき懐疑は見出されるのである。現実と理想、価値なきもしくは価値少きものと、価値
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