た私は敏感がいかに多くの天才の特質であったかを誰よりも以上に承認する。しかし私はそれらの天才の感情や情調や気分や涙がいかに純粋であり、生命的であり、自由であるかを知っている。私はヒステリー女の感傷を退けて無邪気な子供の美しき感傷に憧れる。いわゆるセンチメンタリストには性格の強さがないのはもちろんであるが、彼らにはまたそれの深さもない。
これに反して偉大なる人格の闇と憂鬱とは生命そのもの、私たちの奥底に横たわる意志そのものの純粋にして自由なる闇と憂鬱とである。あるいは彼らの深く掘り下げてゆく心がかかる闇と憂鬱とに面と向ったとき、もしくは彼らの強い直観力が殆んど無意識的にかかる闇と憂鬱とを感ずるときに自ら生れるところの闇と憂鬱とである。それらのものは彼らにおいて生命であり力であるがゆえに、時にはそれらのものは自分自身を否定して巨大なる光輝となって輝き出でる。それゆえに彼らの根柢にある闇と憂鬱の海はそれが白波となって砕けて表面を蔽う快活のために見誤られ見遁されることがしばしばある。彼らにおいてこそ性格の強さと深さとは見出されるのである。
あたかも岐路へ踏み入ったかのごとく感ぜられる私の上の考察は、真の個性は自己の表面に漂うものよりもその根柢に厳存するもの、外に拡る心よりも内に潜む心にそれの本質を有するものであることを理解する上に幾分か役立つであろうと思う。自己に覚めたといい、自己に生きておるといって誇りげに振舞っておる世の多くのいわゆる新しき人を見るに、彼らは彼らにおいて特性的なもの、病的なもの、畸形なるもの、もしくは単に表面に漂う気分をあたかも真の個性のごとく考えて、それらのものを弥《いや》が上に主張しようとするのである。彼らの多くは剛情で片意地で尊大である。徒に他に対立し拮抗して行こうとする彼らの心は険しくて安静を欠いている。彼らは彼らの他に徒に対抗してゆこうとする険しい心が、彼らを駆らずにはおかない限りなき運動をもって旺盛な心の活動と思い誤り、彼らの不安と焦躁との中に動揺して止《や》まない気持を素敵に勇敢な気持だと考え誤っている。けれど真の活動には自由な安静が感ぜられ、真に勇敢な気持には反面に謙虚な気持が伴っている。また真の個性の本質は普遍的なるものが自ら分化発展してとったところの形において見出されるのである。個性の根柢は普遍的なるものにある。しかして普遍的なる
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