もろのイデーである。イデーは母たちとして、概念的なものとしてでなく、直観的なものとして表はされる。それはロゴスでなく、ミュトスである。イデーは彼にとつて抽象的形式的なものではない。「イデーの如く、豊富で生産的」、とゲーテは云ふ。母たちは孕《はら》むもの、産むもの、生産的なものの象徴である。然しまた母たちは特に人間生活の自然形態を表はし、その歴史形態を表はすものではない、女性は男性に比してより自然的なものとも考へられるであらう。云ふまでもなくプラトン的な二元論はゲーテのものでない。原現象はいはば飛躍なしに自然的に時間のうちへ発展して行く。イデーは経験の背後にでなく、却て経験そのもののうちに与へられてゐるのである。「色どられたる影像において我々は生命をもつ。」イデーは内的なもの、純粋に精神的なものとして、歴史的に触れられ、見られ得るものにおいて初めて具象化に達するといふのでなく、寧ろもともと或る自然的なもの、感性的なものを含み、従つてそれだけ直観的であり、そのもの自身において具象化されてゐる。かくの如く具象化されたイデー、イデーの自然形態とも云ふべきものがミュトスにほかならない。我々はミュトスの概念が既にプラトンの哲学において如何に重要な位置を占めてゐたかを知つてゐる。しかもミュトスの概念がこのやうに重要な意味を有したのは、思想史上|殆《ほとん》ど凡ての場合、一般に生成、従つてまた歴史の問題に関してであつたといふことは興味深きことであらう。かくてゲーテにおけるミュトロギーとしての歴史の概念の特殊性を理解するために、彼における生成乃至発展の概念が究明されねばならぬ。

        四

 生成と運動の思想は夙《つと》にゲーテに含まれてゐた。「自然のうちにあるのは永久の生命、生成と運動である。自然は永久に転化し、そのうちには如何なる瞬間にも静止がない。」と既に二十二歳のゲーテは書いてゐる。この思想は『植物の変態』、その他の彼の晩年の自然研究において完成されるに至つた。然るにこのときその基礎には、つねに形態或はテュプス、或は原現象の観念が存してゐた。植物の場合ではそれはかの「原植物」である。発展の思想はこのやうに形態の思想またはテュポロギーと結び付くことによつて Morphologie の思想となる。モルフォロギーの思想とテュポロギーの思想とはもともと離るべからざるものである。原現象とは、それにおいて生成のイデーが純粋に眼前に横たはるところのものである、とシュペングラーは説明してゐる。現代の歴史家たちがゲーテから汲《く》み取らうとするのは、特にこのモルフォロギー的思想である。シュペングラーはその書物を「世界史のモルフォロギー」と名付ける。ゲーテにおける変態の思想は特殊なるテュポロギーを基礎とするのであるから、それはダーウヰン流の進化論との関係において見らるべきであるよりも、寧ろライプニツの Monadologie の思想に近く立つてゐたと云はれよう。モルフォロギーは彼にあつてモナドロギー的である。これらの点で我々は、ゲーテにおける有名なスピノザ主義なるものに少くとも重大な制限を加へなければならぬ。ゲーテ自身モナスもしくはモナドという語を使つてゐる。それは彼がアリストテレスに従つて好んで用ゐたるところのエンテレヒーにまで発展するものであり、個体または人格の本質を表はすためのものであつた。「我々が神即ち自然から受けた最高のものは、生命、換言すれば、休息も静止も知らぬモナスの自己自身の周りを廻転する運動である。生命を養ひ育てる衝動は各々のものに毀《こぼ》ち難く生具してゐる、しかもそれの特有性は我々及び他のものにとつてどこまでも秘密である。」――「動物の本能に関する問題は唯モナド及びエンテレヒーの概念によつてのみ解決される。各々のモナスは或る一定の条件のもとにおいて現象に現はれる一のエンテレヒーである。」このやうにしてゲーテにとつてもモナドは破壊され得ぬ個体的統一を意味し、この統一は活動的発展的統一であつた。然しまたかやうな個体は彼にとつてつねにテュプス的意味のものであつた。「特殊は種々なる条件のもとに現はれてゐる普遍である。」個体の発展といふのはそれがテュプス的となることにほかならない。
 かくてゲーテの自然は、先づ一の発展史を含むことによつてスピノザの自然から区別される。ゲーテをスピノザと共に自然汎神論者と呼ぶにしても、ゲーテの汎神論はディルタイの語を借用すれば発展史的汎神論であつた。次にゲーテは全自然の生成のうちにいはば個体化の衝動がはたらいてゐるのを見た。すでに動物と植物との相違は、前者においてはより完全な仕方でその動的中心をなす有機的形成力が個体化の方向に向つて活動するところにある、と彼は考へた。個体的統一たるモナドの発展は最大の
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