の就中《なかんずく》二つの感情であつた。――過去[#「過去」に傍点]のうちへ忍び入る追憶、それの魅惑的な月光に、ひとは心を傾け尽した。未来[#「未来」に傍点]のうちへ尋ね入る憧憬《しょうけい》、ひとは青い花を求めて限りなくさまよひ、そして決して目的に達することがない。
然るにかかる浪漫的な時間の感情は、他の方面から考へるとき、それ自身また非歴史的であつたであらう。それは何よりも過去の追憶と未来の憧憬との感情であつて、そこには現在の堅固な把握が欠けてゐる。しかも現在といふ時間契機こそ現実的な歴史的意識の最も重要な要素であるべきである。まさに今日我々は歴史のかくの如き現在性の方面を力説すべき場合である。この点からすれば、ゲーテは浪漫主義者たちよりも却て歴史的であつたと云はれ得る。浪漫主義は遙かなるもの、朧《おぼ》ろなるもの、仄《ほの》かなるものに心をひかれる。従つてそこに見られるのは主観的傾向であつて、ここに先づ既に、客観的であることを本質とする歴史的意識と浪漫主義との乖離《かいり》がある。ゲーテは同時代のかやうな浪漫的傾向から離れて立つてゐた。彼は自己の時代を回顧しつつ、「私の全時代は私からかけ離れてゐた、なぜならそれは全然主観的な方向のうちにあつたし、然るに私は私の客観的な努力において孤立してゐた。」と述べてゐる。それのみでなく彼は、主観的であるか客観的であるかといふことにおいて、時代が後退的であるかそれとも前進的であるか、といふことの表徴を見出し得ると信じた。「後退と解体とのうちにある凡《すべ》ての時代は主観的である、これに反し凡ての前進的な時代は客観的な方向をもつてゐる。我々の今の全時代は後退的である、なぜならそれは主観的であるから。」我々はここに彼の歴史哲学の最も重要な思想のひとつを読み取らなければならない。彼の内的発展が進むに従つて、ゲーテの見方はいよいよ深く客観的となつて行つた。彼の感情は、彼自身が彼の対象的|思惟《しい》もしくは彼の思惟の対象性と呼んだものによつて補はれ、統一された。「自己を対象と最も親密に同一となし、それによつて本来の理論となるやさしい経験 zarte Empirie がある。精神的能力のこのやうな高昇は然るに教養の高い時代に属する。」ところでかかる「やさしい経験」こそ歴史家にとつて最も必要なものである。この点からしても、浪漫的詩人でなく、寧ろゲーテが歴史家の精神に通ずるものを具《そな》へてゐたと云はるべきであらう。
ゲーテは現在を重要視することによつて更に深い意味で歴史と交渉する。それによつて彼は歴史を理解する立場でなく、却て歴史そのものを作る立場に立つたのである。歴史の問題に関する考察は従来主として理解の立場からのみなされて来たが、それを行為の立場からなすことが特に大切である。ファウストは先づ享楽の人間として現在が彼にとつて凡てであつた。「私はただ世の中を駆け抜けた。」瞬間から瞬間へ、未来に悩むことなく、過去に煩はされることなく、ただ現在の享楽を知つてゐる。次にファウストは行為の人間として現はれる。「彼はしつかりと立ち、そして此処で見廻す。彼には永遠のうちへさまよふ何の必要があらう。」行為の人間は現在に生き、現在は彼にとつて永遠といふよりも寧ろ勝れて瞬間の意味を有する。現在に活動する者は未来について配慮することを要しない。ひとはゲーテが不死の観念を活動の観念によつて基礎付けようとしたのを知つてゐる。彼の精神は現在の活動に集中される。ノ※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]ーリスは、「凡てのものは遠く離れることによつて詩となる。遠い山、遠い人間、遠い出来事。凡てのものは浪漫的となる。」と云ふ。然るにゲーテにとつては「瞬間が永遠である。」遠さの魔力のもとに立つことは生ける生命を失ふことである。彼が浪漫的を病的なものと考へたのは当然である。歴史が単に過去のもの、滅びて行つたものを意味する限り、それは彼にとつて何のかかはりももたぬ。事物の消滅性、その意味での歴史性について仰々しく語る人々のために彼は悲しみ、「我々は実に消滅的なものを不滅的ならしめるために生れてゐるのでないか。」と云ふ。力説されるのは飽くまで現在の行為である。歴史への関心が過去への単なる憧憬である限り彼はそれを却ける。「ひとが振り返つて憧れねばならぬやうな如何なる過去のものも存しない。ただ過去の拡大された諸要素から形作られる永遠に新しきものが存するのみである。そして真正の憧憬はつねに生産的であり、新たなるより善きものを作り出さねばならぬ。」ここに生産的憧憬といふ語をもつて表現された如く、ゲーテにとつて歴史への通路はただ生の見地からのみ開けてゐる。歴史的なものは、それが現在の生へのはたらきかけ、これを生産的ならしめる限り、彼に対して意
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