味を有することができる。それ故にランケの「私は唯それが如何に本来在つたかを示さうと欲する」といふ言葉が歴史的意識の本質を現はす限り、――それはたしかにそのやうな本質的な一面を現はす――ゲーテには歴史的意識が欠けてゐたと云つてよい。なぜなら本来在つた[#「在つた」に傍点]ものの認識は、それが一般に現在の生に対し促進的生産的な関係を有しない限り、それ自体としては彼にはどうでもよいことであつたから。然しながら他方、歴史の生命性の意識が現実的な歴史的意識の重要な要素であるべきである限り、ゲーテこそ十分に歴史的意識を有したと云はねばならぬであらう。歴史と生との関係を強調して、彼は、「我々が歴史についてもつ最も善きものは、それが喚《よ》び起す感激である。」と記した。
尤も、我々はゲーテが徹頭徹尾芸術家、殊に詩人であつたことを忘れてはならない。従つて彼にとつて行為はもと社会的歴史的な実践といふよりも却て芸術家的な直観=造形=生産――かかる芸術的活動も固《もと》より広い意味においては行為に相違ない――を意味したのみでなく、本来の実践も主としてかくの如き形式のもとに捉へられた。我々はゲーテを、しばしば見られるやうに、あまりにフィヒテ的に解釈することを慎しむべきであらう。行為も彼にあつては直観と離れず、それ故に未来によつて特殊にアクセント付けられた実践でなく、寧ろ体現的な現在的なものであつた。そして直観は彼においてつねに造形的、生産的性質のものであつた。然しながら、固有なる歴史的意識を与へるものは根本において観想でなく実践であるとすれば、ゲーテには歴史的意識が欠けてゐたと云はれるのはまた当然であらう。歴史的意志はまさに一回的なものを意欲する。それによつて歴史的意志は消滅的なものを意欲するのでなく、却て永遠なるものを意欲するのである。かくの如く矛盾せる歴史的意志は、瞬間に集中されることによつて自己を徹底する。瞬間は現在であるが、永遠の現在ではない。寧ろ瞬間は未来によつてアクセント付けられた現在である。実践を根柢とする歴史的意識にとつて現在は瞬間であるに反し、観想の立場を離れないゲーテにとつては現在は永遠であつた。歴史への通路は彼にはただ生の側からしてのみ開けてゐたが、生とはこの場合直観的なもの、現在的なもの、生産的なものを意味する。かかるものがまた彼にとつて真理と実在とを意味した。伝来
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