、最初の手がかりは無いはずであった。
幕府も、それを知っておりながら、反対論に怯えたり、繁雑な手続きを長々と調べたり――斉彬は、そういう役人、大名、輿論に対して、ただ一人、この部屋で、こうして闘っていた。ふっと、寛之助のことを思い出しても、自分の子の病、死などは、窓外をかすめる風音ぐらいにしか感じなかった。
(医者が十分に手当をしてくれている。自分がいたとて、癒らぬものは癒らぬ)
と、呼びに来られると、考えた。
(自分が行かないために、よし、寛之助が死んだとしても、この草案には代えられぬ。この草案のために、あの子が犠牲になったとしたら、こんな光栄な死はない)
と、いうような理窟まで考えた。だが、立上った。襖を開けると、近侍が、廊下に手をついて待っていた。
「もう、死んだか」
「いいえ、御重態のよしでござります」
斉彬は、愛児の見舞に急ぐよりも、早く見舞って早くここへ戻らんがために、大股に、早足に、廊下を急いだ。
「お渡り――」
と、いっている声が聞えた。侍女だの、医者だのが、出迎えに来た。
病室へ入ると、誰の顔にも、不安さと、涙とがあった。英姫の眼は、泣きはれて、蕾のようになっていたし、七瀬の髪は乱れて、眼が血走っていた。斉彬は、寛之助の枕頭へ坐って、じっと、病児の顔を眺めた。
寛之助は、眼に見えぬ敵と、何《ど》んなに戦ったのだろう? 三日見ない間に、頬の艶がなくなって、痩せてしまっていた。罪の無い、無邪気な幼児が、たった一人で、乳母の力も、医者の力も、およばないところで、泣きながら、苦しめられながら、怯えながら、死と悪闘している姿を想像すると、斉彬は
「若」
と、叫んで、涙ぐんだ。血管が青く透いて見える手、せわしく呼吸に喘いでいる落ちくぼんだ胸、愛と、聡明とで黒曜石の如く輝いていた眼は、死に濁されて、どんよりと、細く白眼を見開いているだけであった。
「回復の望みは――」
「はっ」
と、いって、三人の医者は、頭を下げたままで、何んとも答えなかった。見ない前の心強さが、寛之助のいじらしい姿に、打ちくだかれて、斉彬は、幾度自分の名を呼び、自分を見たく思ったかと思うと、熱い悲しみの球のようなものが、胸から、頭の中までこみ上げて来た。
「痩せたのう」
と、いって、斉彬は、意識のない寛之助の、手を握った。掌へ感じたのは、熱と骨とだけであった。英姫は、それ
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