だけを講じ、後は他の諸氏の講義を参考にしていただきたく思うのである。大衆小説といっても小説であるからには小説の書き方に根本変りのあろうはずはない。特に、大衆文芸として必要欠くべからざる点は漏さず、その代りあまり重要でないと思われる点はさっさと飛ばしてテンポを速め、面白く、然も有益に、残る講義を諸君とともに続けたいと考える。御愛読を希望する次第である。では早速続けよう――。
日本のみならず、外国の大衆文芸に於ても矢張り時代ものが多いのである。少くとも、今までのところでは時代物が勢力を占めているのである。ところが、我国の大衆文芸と異るところは、大抵のものが史実に基礎を置いていることである。「ウィリアム・テル」でも、「ポンペイ最後の日」でも、或は又「|何処へ行く《クオ・ヴァディス》」にしても、凡て然りである。
且、取材の版図が非常に広汎に亙っていて、古代より最も近代に到る史実を題材としていること、日本の大衆作家のその取材を江戸幕末に限るのと雲泥の差ありと云わねばなるまい。この点は、将来の大衆文芸作家の心得るべき点である。
外国の大衆文芸には、可成りに空想的な、事件本位な、換言するなら娯楽本位のものもあるが、それらが何れも史実にある程度の基礎をおいているという点から来る、「事実らしさ」という面白さは日本の一般の大衆文芸には発見出来ない強味に違いない。この点から見るに、我国の大衆作家はすべて、事件の面白さ、空想的趣味を、史上の人物に結び付けることの技巧が非常に拙劣なために、この強味――「事実らしさ」――を持つことが不可能なのである。
それは、一体何に起因するか? といえば、云うまでもなく、歴史的知識の不足より来ていると見るの他はないのである。前節の「歴史小説」ほどの厳密さは敢て強要しないが、少くとももっと史的事実を考証し、研究する必要が充分にあると信じるのである。
その中でも、最も重要な大衆文芸の要素となっているところの、「剣術」及び、「忍術」のことさえ、本当に調べて書いている大衆文芸作家は、殆んど少いといっていい。
「剣術」の参考書は前節に挙げておいた故に再び述べないが、「忍術」の参考書として、世間に可成り充分に流布されている「正忍記」一冊さえ読んでいないらしい大衆文芸作家が転がっているのには驚くにたえる。そうでなかったら、あんな馬鹿げた忍術は書けない筈なのである
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