ということは、人間の考え方の一つの重大な誤りであった。精神生活のみが人間の唯一の生活ではない。精神生活のみが尊く、物質的生活が卑しいという事は、明らかに誤謬《ごびゅう》である。だが、まだ人間は、他の動物にない思索力を有するが故に、しばしばそれを過度に尊敬して来たし、現在でも一部分の者はしているのである。
そして、この誤謬を直さんとする運動の一つが、社会運動である。人間全体の生活をよくする事は、文学に於てよりも、直接の社会運動による事が遥かに有力であると、発見したからである。文学は寧ろ社会運動に利用されようとするに到った。
この思索の過重的尊重という事が、芸術小説の癌を為《な》している。それが如何に、低級、浅薄であろうとも、それのみを尊重して、興味ある事を除くという事が、精神生活に於ては尊いという風に考えられていた。
一体、思索の尊さは、読書人がそれによって、感激する場合のみである。何の感激も与え無い、陳腐にして、常套的なる物が、余りに多く描かれ、過去の文学は既に感激を失って了った。現在、果してトルストイ伯の、ドストエフスキイの作品が人々に昔程の感激を読者に与えるであろうか。
精神生活のみを尊重し、物質生活を卑しいと見ることの謬見であるのを、私は既に述べた。何故なら、物質生活こそが精神生活の根底であるから、私は、物質生活と精神生活と何《どち》らが尊いかと云うのではない。物質生活の安定あって、始めて精神生活が充分に為されるのである。その物質生活は、現在どうであるか。資本主義社会の矛盾によって大衆の物質生活は益々、極端に貧困化しつつある。現在の社会は、見よ、加速度的に混乱して行くではないか。それは一方、科学の異常な進歩と、交通機関の発達によって、生活も社会も、思想も刻々に変革されて行き、往古の如く同一状態に於て、半世紀、一世紀を送る悠長さを許さなくなって来たのである。
社会はどうなるだろうか? 思想はどう結末するだろうか? 誰も今日、それに対して明快に答え得るものは無いのであろうか? 己の立っている土台が動いているのである。婦人は、封建的貞操を棄てんとしつつ、而《しか》も、それに代る道徳を見出し得ない。男子は、古き衣を脱いだが、新らしき着物を知らない。社会は、一革命を起さんとしつつも二つの勢力は対等に抵抗しあっているのである。
今や、ヨーロッパ文明は沈消して、
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