がら悪文の適例である。では、次に――

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 永い用便を終って厠《かわや》を出た信長は、自然らしく話の序《ついで》に、近習等に向い
「たれか余の脇差の刻み鞘の数を云い当てて見い、云い当てた者には脇差を与える」
 と云う問題を出した。勿論受験者の中には蘭丸も居た。此の試験は大いに不公平である。試験官が問題を漏洩したとは謂《い》えぬが、受験者の一人を偏愛しての出題だと謂うことは出来る。信長ほどの大丈夫《だいじょうぶ》も同性愛に目がくらんで、時々こんなメンタルテストを試みたかと思うと、何とも云えぬ親しみを感ずる。
 近習等は我勝ちに答案を提出した。是も随分おかしな話である。まるで根拠が無しに、いくつと云うのだから当るはずも無く、当ってもマグレ中《あた》りである。占のようなもんだと謂いたいが、占だって占者に謂わせればドウして仲々大そうな根拠があるのだから、此の答案は先ず、占よりも以上に、あてずっぽうの方である。
 問う者も問う者なら、答える者も、こんにゃく問答以上の、やみくも問答に暫し市が栄えた。
 信長は快心の笑を浮かべつつ
「うむ、それから」と順々に答案を促して居たが、心の中では、この脇差を蘭丸に与うる時の自分の満足と蘭丸の喜びとを予想して、すこぶる幸福であった。
 ところが蘭丸は最後まで口をつぐんで答えようとしなかった。
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 これは同じ日の報知新聞の夕刊の矢田挿雲の「太閤記」の一節である。この文章は如何? これは、確かに解りいい文章である。然も一脈の諧謔味を湛えている。ユーモアに富んだ軽快な文章であると云える。大衆文芸の求める、よき文章の一例であろう。
 最後に、同じ報知新聞の、吉川英治の「江戸三国志」から引用しよう。

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 やっとそこらの額風呂の戸があいて、紅がら[#「がら」に傍点]いろや浅黄のれんの下に、二三足の女下駄が行儀よくそろえられ、盛塩のしたぬれ石に、和《やわ》らかい春の陽が射しかける午少し前の刻限になると、丁字風呂の裏門からすっと中に消え込む十八九の色子がある。
 曙染の小袖に、細身の大小をさし、髪はたぶさ[#「たぶさ」に傍点]に結い、前髪にはむらさきの布をかけ、更にその上へ青い藺笠《いがさ》を被って顔をつつみ、丁字屋の湯女《ゆな》たちにも羞恥《はにが》ましそうに、奥の離れ座敷に燕のよう
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