であるが、批判という点では、矢張り殆《ほと》んど欠乏していると云わなくてはならないであろう。
 震災後、起って来たプロレタリア文芸が、実に盛んになって、今日プロレタリア文芸理論の論議が喧噪《けんそう》を極めているのと同様に、将来を期待される大衆文芸も亦、今やその理論を一応は確立すべき時にまで立ち至っているのではないだろうか。新聞紙上に於ても、屡々《しばしば》大衆文芸が問題となっているのを、我々は見るのである。我々は、将来の発展の見通しをつけるためにも、大衆文芸理論を、兎も角も確立する必要があるのではなかろうか。
 併しながら、私は此処で、大佛次郎の、或は某々、等の大衆文学に関する論を或は反駁し、或は賛成して、議論を闘わそうとは思わない。唯、かかる過程を経て起って来た現在の日本の大衆文芸は、かく進んで行くべきであり又進んで行くであろう、と云うようなことをこの章の結論として一般的に述べるに止めたいと思うのである。凡ゆるものは、原因があって起り、そしてそれ自らが持つ最大限度には発展し得るものなのである。大衆文芸も亦、私が再三述べて来たように、一般的には、資本主義的な世界思潮の波に乗って生れて来、特殊的には我国に於ける自然主義文芸運動の変調的発展に堰き止められたために特に遅れて、併し反《かえ》って急速に、近頃になって再び新らしく起って来たのであった。そのことは、第二章の意義の処で可成り詳細に述べたと思うからここには云わないことにする。かかる必然的結果として文学の一部門中に誕生した大衆文芸は、従って芸術小説とは自らその性質を異にして広汎な読者層を包含する故に、階級的な特殊性を避けようとしても避け切れないものがあるのではないかとも思われる。勿論、現在、興味のみのもの、興味即ち事件の運びの面白さと謂ったもののみで、成立した大衆文芸が存在し得るのは事実だ。だが、大佛氏が云うように、現在の資本主義的ジャーナリズムが握っているように思われる所謂「大衆」が、その歴史的必然の途を踏んで階級の特殊性を愈々自覚して来る時、現にしつつあるごとく思われるが、その階級的分離の速度を強めて行くのは当然だからである。そして、作家それ自身もやはり社会生活をするものである以上、彼等自身何等かの色づけをされざるを得ないのではないだろうか。即ち、作家達個々の良心に従って、個々の大衆作家の描く作品そのものも変って
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