《のが》れんとして、勢い享楽的なものを求める。そこで、そこに文学的欲求がある限りに於て、人々は通俗的文芸の出現を望むようになる。ここに通俗的なる文芸、大衆文芸の発生、隆盛がかもし出されるのである。
この場合、勿論、科学の発達の中に含まるべきことではあるが、特に文芸に於て注意して置くべきは、印刷術の発達普及ということ、従って一般読者のレベルの向上、及び読書力の普及ということである。これが大衆文芸発達の一原因であるのは云うまでもないことである。
芸術的小説の衰頽《すいたい》、大衆文芸の発展は、これを世界中、凡ゆる処に例をとることができる。フランスに於ては、今や洒落《しゃれ》文学といったようなものが全盛を極めているし、アメリカに於ては、前に述べたように、勿論、芸術小説は皆無と云っていい。独逸《ドイツ》に於ても、諸君が丸善へ行ったら一見してわかるように黄色本という奴が流行している。イギリスでは大衆文芸が全盛である。新興のロシヤに於てさえ当局がかくも文芸を奨励しているに拘らず、まだ偉大な新らしき時代のトルストイも、ドストエフスキイも出現しないように見受けられる。日本で円本の乱出のために芸術小説が行詰ったなぞというのは、浅薄《あさはか》な考え方であって、やはり日本も、世界の潮流に圧し流され、同じ原因から、既に芸術小説が行詰ったと見るのが正しい。もし、円本のために行詰ったというのが正しいとすれば、読者はその程度の欲求しかないことになり、かかる読者の欲求なりとすればそれは実につまらないことであり、一方作者は自身の芸術的無力を自覚して、小説を書くことを止めたがいいのである。だが、読者は決して、そんな欲求に甘じているのでは無い。きっと広汎な読者層は、芸術小説にあきたらず、寧ろ熱烈に大衆文芸を求めてやまないことを、事実が証明している。日本の特殊的な事情については後に述べる積りである。
そこで、私が芸術小説の衰頽と云ったのは、決して滅亡を意味しているのではない。総て、物には、芸術にも、時代的な変遷というものがある。例えば、彫刻は何といっても希臘《ギリシャ》時代が最も発達していた。併しながら、彫刻という型の芸術は現在にも滅びずに残っている。他に例を挙げれば、現在アメリカには純粋絵画は存在せず、絵画はポスター絵画として描かれているに過ぎない。そんな意味で、私はここで、芸術小説の衰頽と云っ
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