歩く準備
「大阪を歩く」前篇は、いい評判であったらしい。
(本紙の社長、前田氏は、よかったよ、と、云っていたが、らしい[#「らしい」に傍点]と疑問にしておくのは、文筆業者の、奥床しさ、というものである)
だが、前篇がよかったからとて必ずしも後篇もいいとは云えない。大抵のいい物でも、続々何々になると、きっと面白くなくなってくるのが、常である。
然し、私は前篇に於て「歩く」つもりをしていながら、歩かなかった。つまり、卓文を書いている内に、約束の十回が終ってしまったのである(前田氏は、十回で、大阪中を歩かせるつもりだったが、そうは行かない。こう見えても、通り一遍の大衆作家で無く、いろんな事を心得ているのだから――と、これは、文筆業者としての、広告である)。
だが、今度は、いよいよ歩かなくてはならぬ。この寒い、お正月に――実の所、私は、マントも、帽子も、持っていない。マントは震災前、菊池寛からもらったが、質に入れて、流してしまった(正しく云えば、流れてしまったのだ。私は、流すつもりではなかったのだが)――それから、帽子は、地震の時に、三つ重ねて冠っていた記憶があるから、確に、三つは持っていたのであるが、いつの間にか、なくなった。それ以来、マントは高くて買えぬし、帽子は――三つも冠っていても、なくなるのだから、一つ位きていても、すぐなくなるだろうと、未だに買わない。
私の経験から云うと、マントというものは着なければ、着ないでもすむものである。日本の冬位なら、私は、シャツさえ着ないで、いつも、済ましてしまっている。帽子に至っては市岡中学時代から、大して好まない。私の顔と帽子とは、余りいい調和だと思えないという事もあるし、私の頭がだんだん薄くなってきたから、この上、帽子をきたなら、あかんと思うからでもある。
それで、歩くには、少し、寒いにちがいない。私は、恋愛のためには、可成り歩いた事もあるし、今でも、散歩の為なら暖かい日に二三町位は、歩きもするが(だからと云って、私を軽蔑してはいけない。歩くと、決心すれば、一昨年の夏、私は、上越国境の三国峠を越えて、越後湯沢へ下駄履きのまま、出る事のできる男である)。歩いて、原稿をかくのは、これが初めてである。そして、同じ歩くにしても、こうなると、女に見とれたり(私は、このいい癖を、十分にもっている。女から、見とれられた事は、無いようである)、小説の筋を考えたりする事はできない。ノートを懐に、印象をかいたり、感想を止めたり(私のノートは、始めて、ノートらしくなるであろう。私の、紙入の中には、二三年前から、小さいノートが入っているが、芸者の名だの、ウェイトレスの署名だの、碌なことが書いてない)、それから、宿に戻ると、私は、今度、約、三十冊の参考書を持ってきている。それでそれによって、いかに、私が、博学であるか――と、いうように、いろいろの知識を、書くのである。
例えば、私は、淀屋橋に於て、勿論、淀屋辰五郎を書くであろうが、それからつづく、八幡の仇討は、恐らく、誰も知るまいし、金の鶏の伝説と、長者伝説、それから、大阪町人の献金と、幕府の対町人政策、もし、私が、紡績会社を訪問したなら、一九一四年の総|錘数《すいすう》が、一億二千五百万個であり、その消費数が、二千八百万俵であったに拘らず、一九二八年には、錘数に於て二割六分を増加し、消費数に於て一割の減退を示しているから最早、紡績業は、飽和点に達して、衰減状態であるというような事を、論じるかもしれない。
私は、現在、又現在まで大衆文学以外の物を書いた事が無いから、私の郷土の大阪の、私の知人も、私を単なる文人と考えているようだが、私は科学、軍事、経済、社会などに対して相当の抱負と知識とをもっているものである。私は他日それを小説の形式によって公表するであろうが、それに先立って、私の郷土、大阪に於て、私の郷土人、大阪人の為に、その全部を披瀝して何かを、大阪及び大阪人に与えたいと、考えている。
私は、女と、食物を、論じると同時に、対支貿易と、到来すべき世界的ダンピングも論じるであろうし、小春治兵衛を説くと共に、島徳七氏について云うかもしれない。歩くと云っても、ただの歩き方とは歩き方がちがう、頭で歩くんだ。少し、禿げてはいるがね。
大阪人
私は、大阪を出てから、二十年になる。二十年、東京に住んでいた。丁度、生れた所に半分、他郷に半分、という訳である。
氏より育ち、とか、孟母三遷の教えとか、人間は、環境に支配されるとか、朱に交わればとか、教育は第二の天性とか――いろいろの言葉があるが、私は、一体、大阪人なのか、東京人なのか?
大阪で生れたから、生れた時から、掌を握っていたとか、二つの時に「こんちは、儲かりまっか」と、云ったとか――いつ
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