は、無いようである)、小説の筋を考えたりする事はできない。ノートを懐に、印象をかいたり、感想を止めたり(私のノートは、始めて、ノートらしくなるであろう。私の、紙入の中には、二三年前から、小さいノートが入っているが、芸者の名だの、ウェイトレスの署名だの、碌なことが書いてない)、それから、宿に戻ると、私は、今度、約、三十冊の参考書を持ってきている。それでそれによって、いかに、私が、博学であるか――と、いうように、いろいろの知識を、書くのである。
 例えば、私は、淀屋橋に於て、勿論、淀屋辰五郎を書くであろうが、それからつづく、八幡の仇討は、恐らく、誰も知るまいし、金の鶏の伝説と、長者伝説、それから、大阪町人の献金と、幕府の対町人政策、もし、私が、紡績会社を訪問したなら、一九一四年の総|錘数《すいすう》が、一億二千五百万個であり、その消費数が、二千八百万俵であったに拘らず、一九二八年には、錘数に於て二割六分を増加し、消費数に於て一割の減退を示しているから最早、紡績業は、飽和点に達して、衰減状態であるというような事を、論じるかもしれない。
 私は、現在、又現在まで大衆文学以外の物を書いた事が無いから、私の郷土の大阪の、私の知人も、私を単なる文人と考えているようだが、私は科学、軍事、経済、社会などに対して相当の抱負と知識とをもっているものである。私は他日それを小説の形式によって公表するであろうが、それに先立って、私の郷土、大阪に於て、私の郷土人、大阪人の為に、その全部を披瀝して何かを、大阪及び大阪人に与えたいと、考えている。
 私は、女と、食物を、論じると同時に、対支貿易と、到来すべき世界的ダンピングも論じるであろうし、小春治兵衛を説くと共に、島徳七氏について云うかもしれない。歩くと云っても、ただの歩き方とは歩き方がちがう、頭で歩くんだ。少し、禿げてはいるがね。

  大阪人

 私は、大阪を出てから、二十年になる。二十年、東京に住んでいた。丁度、生れた所に半分、他郷に半分、という訳である。
 氏より育ち、とか、孟母三遷の教えとか、人間は、環境に支配されるとか、朱に交わればとか、教育は第二の天性とか――いろいろの言葉があるが、私は、一体、大阪人なのか、東京人なのか?
 大阪で生れたから、生れた時から、掌を握っていたとか、二つの時に「こんちは、儲かりまっか」と、云ったとか――いつ
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