ク街の方へ足早に行きましたが、あんまり足が早いので追っかけてみたがだめでした」
「バロック街」と探偵は言った。そして勘定をおっぽり出すと、二人の怪人物を目差して突進した。
今や彼等の旅は、トンネルのような、何のかざりもない煉瓦の道の上に来た。燈火もまばらな、いな、窓さえもろくに目につかない町々、あらゆるもの、あらゆる場所のうつろな背景から出来ているような町々だ。夕暮の薄暗《うすやみ》はようやく濃くなりそめて来た。そしてロンドンの警官達にとっては、どこをどう辿ってよいか判らないこの追跡は今までにない不安極まるものであった。ただ、とどのつまりは、ハムステッド公園のどの辺かを襲うのだろうということは警部には幾分見当がついていた。と、突然に、瓦斯があかあかと灯された張出窓が、蒼い黄昏を破って目についた。ヴァランタンはおごそかに、そこの華かな菓子売の小さい店の前に立つとふと立ち止った。しばらくはためらったが、やがて、ずかずかと店の中に這入ると、彼は澄まし切った顔付をして、十三個のチョコレート・シガーを買った。彼はたしかに何か言い出そうと構えていたのだが、その必要はなかった。
店にいた痩せた、年増の女は、何とはなく物問いたげなヴァランタンの立派な姿に見入っていたが、彼のうしろの入口にいる警部の青色の服に気がつくと、女はよみがえったような眼つきをして言った。
「ああ、もしや、あの小包のことではございませんの? あれならもうとうに送っておきましたわ」
「えっ、小包!」とヴァランタンが鸚鵡返しに言った。
「ハア、あの坊さんの方がお忘れになった小包でございます」
「占めた」とヴァランタンは始めて正直に彼の熱心さを顔に表わして言った。「後生だから、すっかり出来事を話してくれ」
「なあに」と女は少し疑わしげに、話し出した。「たった三十分ばかり前のことですが、二人連れの坊さんがお見えになって薄荷《ペパーミント》を少しばかりお買いになって行ったのです。それからあのハムステッド公園の方へ行らしったようですが、まもなく一人の方《ほう》が引き返して来て『わしは紙包を忘れて行ったと思うが』と言うのです。で私はずい分さがしてみたのですが、どこにもございません。でその通り申しますと、いやかまわぬ。が、もし出て来たら、お気の毒だが、この宛名で送ってもらいたいと言って、番地を書いたものと、少しばかりだが、と一|志《シリング》のお金を置いておかえりになったのです。すると私が見落していたのでしょうか、あとからその方の言った通り、茶色の紙包が出て来ましたので、すぐ小包にして送っておきました。けれど、その番地は忘れてしまいました。何でもウェストミンスター区のどこかでした。おぼろにしか覚えておりませんが。でも何だか大切そうなものだったので、それでお役人がお見えになったのだろうと存じましたわ」
「そうです。それで来たのです」とヴァランタンは簡単に答えた。「ハンプステッド公園は近くですか?」
「十五分も真直に行《ゆ》けば」と女は言った。「直《じき》にその広場に出ますわ」
ヴァランタンはその店を飛び出して走り出した。警官達もやむなくそのあとに従った。
町筋は両側がせばまって家々の影が立ちこめていた。それで彼等が町を出外れて、空っぽな公有地に出た時には、夕映がまだ金色《こんじき》に照って明るく晴れ渡っているのに目を瞠ったのだった。太陽は黒ずんだ樹木や暗菫色《あんきんしょく》の遠影のあなたに沈みかかっていた。燃えるような緑色はもうすっかり濃くそまってその間に一つ二つ輝く星がちりばめられていた。昼間からとりのこされた万象は、夕映の化粧として、この広場の涯《はて》まで、それから「健康の谷」と呼ばれている、ハムステッド公園の端まで、金色《こんじき》に満たされていた。この辺をぶらつく休日の散策者の影もまだすっかり消えてはいなかった。まるで一対のように離れない姿が、あちらこちらのベンチにいぎたなく横わっていた。遠くのブランコに乗った少女の叫び声も時々は聞えて来た。天の栄光は人間の暗い厳粛な野生の姿を深めていた。そして、ヴァランタンはと言えば、彼のもとめるものをさがしつつ、傾斜地《スロープ》に立って谷の向うをながめていた。
向うの遠い彼方に、幾組もの人々が、次第に散って行く中《うち》に、特に黒くくっきりと見える姿があった――二人の僧侶風な装いをした男だった。それは虫けらのように小さく見えるけれども、ヴァランタンの眼には、その中の一人が他の一人よりも更に小さいのが、はっきりとわかった。大きい方の男は背を屈《ま》げて、別に目立つふるまいもしていなかったが、ヴァランタンには、その男が六|呎《フィート》はたっぷりあることがわかった。彼は歯を喰いしばって、ステッキを性急《せっかち》にふりながら、近づい
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