ですよ」
「何だって、二人連れの坊さんだって?」
「ええそうです」と給仕は言った。「あの壁にスープをぶっかけた」
「壁にスープをぶっかけたんだって?」とヴァランタンがくり返した。こいつは妙な話しになったわいと思いながら。
「そうです。そうです」と彼はやや亢奮《こうふん》して白い壁紙を張りつめた上についている黒い飛沫《ひまつ》を指さしながら、「あの壁にぶっかけたんですよ」と言った。
ヴァランタンは改めて、主人の説明をもとめるように彼を見た。主人はくわしく話しはじめた。
「その通りでございます。もっとも私には、これが砂糖と食塩との入れ違いに、どんな関係があるかわかりませんですが。今朝ほど早く二人連れの坊さんが、まだ店もあけるかあけない頃、お見えになりまして、スープを召し上がって行ったのです。二人とも大へんもの柔かな相当地位もおありの方のようでした。一人の方《ほう》が勘定をして、さっさと出て行《ゆ》くと、もう一人の方《かた》は、持物があるので、いつまでもまごまごしていられましたが、やっとのことで出ておいでになりました。その時のろい手つきで、まだやっと半分しか飲んでいないコーヒー茶碗をとりあげて、コーヒーをあの壁にぶっかけたのでございます。私は奥に居りましたし、店のものもあちらに居りましたので、出て来た時には、壁はもうあの通りで、店には誰も居りませんでした。大した損害でもございませんが、いまいましいので、表へ出てふんづかまえようといたしましたが、二人とも大へん足の早い奴等で、もう向うの角を曲ってカーステヤース通りに這入って行っていることだけわかりました」
探偵は立ち上って、帽子をかぶり、ステッキを握りしめた。彼は自分をとりまく闇の中に、どうやら一道の光明を認めた。だがその光明こそ、まったく怪しげなものだった。勘定を済ますと、彼はガラス戸を邪けんにしめて、向うの通りに飛ぶように這入って行った。
幸いなことに、彼はこうした亢奮した瞬間にも、なおかつ冷静と敏活とを彼の両眼にたたえていた。一つの店の前を過ぎたとき、何やらパット彼の頭をかすめたものがあった。彼は、踵をかえすとそれに注意した。その店は繁昌しているらしい八百屋兼果物屋で、大道に並べられた品物の上には、果物の名と売値を記した札とがたくさん立ててあった。その中で、密柑《みかん》と栗の二つの山が一番人目につきやすかったが
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