た。もう、十四になっていたから、嫉妬に似た感情をもっていたのであろう。
 徳子と離れ、雪子とおもしろくなくなり、一人ぼっちになった私を、じっと、覗《うかが》っていた女が、ここに一人ある。
 私は二十一、女は二十七。齢から見ると、所謂若い燕に当るが、女は、京町堀小町と唄われ、評判の美人である。
 何故二十七歳に成るまで婚期を外したかというと、当時、有名な「大寺事件」というものがあった。江戸堀随一の旧家、元の十人両替の中の一軒、大寺家に起った謀殺事件である。これと、一寸、女の家とが関係があったので、婚期を失したし、又、意中の人として、木谷蓬吟氏を思うていて、ままにならなかったし、その為、こういう齢になったのである。この女が、上京して、私の童貞を破り、私は女の家へ乱入して、立廻りを演じるという恋あり、涙あり、武勇ありという話になるが、明月に。

    二十三

 雑司ヶ谷、鬼子母神の境内を抜けると、もう一つ寺がある。その側に、植木屋があったが、ここに、仏子須磨子の姉の子が、自炊して、早大へ通っていた。ここへ、一日、須磨子が現れた。井上市次郎というその甥さん――だが六つ齢下の甥さんは
「何んや、喧嘩したんか」
 と、大きい眼を、もっと、大きくして聞いた。
「はあ、もう、大阪へ帰れへんつもり」
 須磨子は、兄の玄竜という人と、余り仲がよくなかった。大学生位までは、美人の妹というものをもっていると、いろいろ利益や、興味が、多いものであるが、生活などが、うまく行かないのに、二十七にもなる妹をもっていると、何んなにそれが、美しくとも、古い女房の、美しさと同じで、少しも、よくは感じないものである。
「植村は」
「田端にいよる」
 私は、田端の、小杉未醒氏の所の近く、泥川沿いの戸叶という家の離れに、藤堂と二人で自炊していた。
 藤堂は太平洋画会へ通っていたし、私は早大文科の予科にいたのである。室生犀星氏が、この藤堂と友人で、びっこの詩人と二人、よく、室生氏を訪問に行っていたらしい。
 この戸叶方へ、須磨子が来て、当分、東京に居るつもりとか、少しはお金がある、とか(これは、二十円の債券を何枚かもっていたのである。勿論、後には、生活費になった)。だが、近頃の時代とちがって、婦人の職業と云えば交換手か、看護婦しかない頃であるから
「置いてもろていい?」
 と、いうより外に、家出娘の生活法はない訳である。
「ええ、よろしい」
 とにかく、対手は、六つ齢上の二十七歳、こちらは、童貞の二十一歳であるから、礼を正しく、言葉を丁寧に
「しかし、寝るところが、ここよりほかに、ありませんから」
「そりゃええわ、一緒に寝るわ。藤堂さんと三人でしょう」
「はい」
 皆、中学同期の出身であるから、仲がよかった。私は身体が、ふわふわとなったように感じたが、それは、こんな美しい人が、自分のような者を手頼《たよ》って来てくれた、という事に対しての感謝で、劣情などの如きは神様に食わしてしまえと
「布団を、じゃ、借りてきて」
「ええ」
 素直に答えたが、この女は私を獲《え》ようとして、大阪から出てきたのである。しかし、何事もなかった。翌日
「市ちゃんとこへ行きましょうか」
「うむ」
 そして、二人は、植木屋の離れで、市ちゃんと三人で寝た。
 その暁、私は、無残にも、取り返しのつかぬ事を、されてしまったのである。

    二十四

「荷物をもってくるから」
 と、云って、須磨子は、大阪へ帰ってしまった。私は汚された身を、袴でつつんで、おもしろくない講義を聞きに行っていたが、その内
「家との事が、中々面倒で――あんた、いつ帰る」
 と、いう手紙がきた。そして、この手紙の終りに、何んと「旦那様」と、書いてあった。
 うれしいような、馬鹿にされたような――こんな言葉は車屋と、乞食の使う言葉で、使われる奴は、五十歳以上というように感じていた私は、その手紙を披《ひろ》げて、にやにや笑いながら
(矢張り、征服したのかな)
 とも、感じた。暑中休暇がすぐに来た。大阪へ帰ると
「家から出してくれぬ」
 と、ノートの端に走り書をして、使の者に届けさせてきた。
「奥へ入れたっ切りで、兄が見張っている」
 二十一の男を、大阪から、いい齢をして、追っかけて行ったのだから、兄玄竜の怒るのも尤もである。だが、私の怒ったのも、又尤もであった。
 雨もよいの空、私は、怒りのかたまり見《み》たいになって、須磨子の家の門を押した。ぎぎいと、重い重りが鳴り、鎖ががらがらと響いた中へ入ると、暗い。のぞくと、誰も居ない。
「お須磨さん」
 と庫裡へ入って、声をかけると、市次郎の母が出てきて
「何んです」
「お須磨さんは?」
 と、聞いた時、兄玄竜が
「来てもろたらいかん」
 と、奥から出てきて、廊下へ立ったままで云った。
前へ 次へ
全23ページ中15ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
直木 三十五 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング