うにか成るわ、くよくよしなさんな、こっちが悲しいわ」
 と、女房は取上げた新聞をもったまま、快活に云った。その内、一日、保高が
「読売新聞に一つ口があるが」
 と、云ってきた。そして
「前田|晁《あきら》氏に逢うて、詳しい話をしてみないか」
 と、晁氏の住所を教えてくれた。それで――何処であったか、郊外の晁氏の所へ行くと、二三、簡単な話があって、帰されてしまった。翌日、保高がきて
「君、いけないよ。応接の態度が、記者に適さんのだ、君、格子戸を開けて、首を突込んで、前田さんはと云っただろう」
 私は、この時、我慢のならぬ不快さを感じた。その時出てきて、私が首を突込んだのを見たのは、晁氏でなかった。
(晁氏ならとにかく、嬶や女中が何んだ)
 と、怒ったのである。
「それがいけないんだね」
「そうかなあ」
 この座に、青野季吉が来ていて
「僕を紹介してくれないか」
 と云った。青野が、読売へ入ったのは、この時である。そして、とうとう私は、一人だけ取残されてしまった。保高が、気の毒がって
「博文館へ話するから、談話筆記でもとらないか」
 と、云ってくれた。それで、かかりの人に逢うと
「鎌田栄吉さんを訪問してきてくれませんか」
 と、いうのである。
「そして、五枚位に書いてもらいたいんだが」
 私は、すぐ鎌田氏を、慶応義塾に訪うた。
「明日午後一時に来なさい」
 というのである。その日に行くと、氏は、部屋から出てきて、私の待っている廊下――庭に面した廊下へ立ったまま、青年に対する訓戒の言葉を話された。私が、それを筆記し終ると
「見せてもらいたい」
 と仰《おっ》しゃった。私はその日、戻るとすぐ清書して送ったが、それっきりである。私は、筆記もとれないらしいのである。その内に、子が出来た。「木の実」という名をつけた。産婆と、隣りの婆さんとに
「家にいてはいけません」
 と、云われて、早稲田のグラウンドの周囲を二時間の余も、歩いていたのを憶えている。戻って来ると
「二人とも達者だよ」
 と、婆さんは、云ってくれたが、私は
(何うして生活すべきか)
 が、第一であった。父にとっては、初孫であるし、いい時に生れやがったと、すぐに、父に無心さした。着物に金を少し送ってきた。ほっと一息ついたが、それはほんの一息である。本をことごとく売り払い、着物のいい物を、ことごとく入質してしまった。


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