、聞くと
「そう聞くと、そうかも知れん」
 と、私の顔を正面から見たが、私は
(何言ってやがる、ちゃんちゃん嬶《かかあ》め)
 と、思って対手にしなかった。所が、これは後日であるが、家賃も払えなくなって、間借りした時、若松町の湯屋へよく行った。
 電車通り、大久保の方へ曲ろうとする所の右側の銭湯である。一日、人の居ない昼間――失業者には、風呂に限ると、ゆっくり、天井を眺めていると、三助が出てきて
「お国は、この頃、埃《ほこり》で大変でしょうな」
 と、云った。いつこの三助、私の大阪生れを知ってるのだろうと
「東京と同じだよ」
 と、答えると
「私は、これで、戦争に行って、約半ヶ年あっちにおりましたよ」
 あれ、又、支那人かと、これは二度目だけに、私も、自分の顔の支那出来を、肯定しなくてはならんようになった。だが
「わかるかね」
 と、いうと
「随分、あんた日本語がうまいが、矢張り、わかりますよ」
 私は暫く、これから、その湯屋へ行かなかった。戻ってきて、この話をすると
「矢張り、あるのかしら」
 と、女は答えたが、生活に打ちのめされていた頃とて、前のようにおもしろくはなかった。声高く笑えないで、微かに不快ささえあった。
 これだけならいいが、大震災の時に、私の情婦を、巣鴨へ訪ねて行って、帰り途、護国寺の前へくると、自警団につかまってしまった。
「お前、朝鮮人だろう」
 と、一人が云うが早いか、ぐるぐると取り巻かれてしまった。
「戯談《じょうだん》云っちゃあ困る」
「いや、朝鮮人だ」
「何んな面だ」
 とか
「ちがうちがう、日本人だ」
 とか、いろいろ周囲で騒いで、無事に納まったが、これで見ると、朝鮮式の所も、多少はあるらしい。
 つまり、いくらかのんびりとしている顔で、そこへ女が惚れるのにちがいない。鏡で、自分で見ると、何処にも、そんな所はないが、人が見ると、いろいろに見えるものと見える。

    三十二

 学校の思い出は殆ど無い。
 中学以来、学校は下らないものだと考えていたのが、確実になっただけである。
 親でもなく、叔父でもなく、主人でもなく、先輩でもなく、先生という一つの尊敬と、なつかしさとをもった人格は、確かに、立派な存在であるが、私は、故郷をもたぬように、そうしたなつかしい先生をもたない。中学の木村寛慈先生が、ややそれに近いだけで、時々、先生はいい仕
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