路なので、砲兵隊が大砲を率いて、よく通ったが、私の家の上げ店が、その車輪にかかって、破られたのを、覚えている。
この生れた家は、私の記憶にして、誤り無くんば、三間あった。店と、次と、奥と――そして、道具として、長火鉢が一つあった。私が立てるか、立てぬかの時分、この長火鉢の抽出しを開けると、油虫が、うじゃうじゃと走り廻っていたのだ。
(何んだろう)
と、別に、恐くもなく、不思議がったのが、今でも、はっきりと残っている。店の品物なんぞは、有ったか、無かったか、少しも憶えていないが、汚くて、暗い家であった印象は、本当であろう。
この家に出入していた人で「鹿やん」というのが、その後も、よく母を慰めにきて、私の為に土産物などをくれたらしい。母が、私の幼時の唯一の話として、いつでも聞かせたのに――この鹿やんが、住吉神社へ詣って、土で彩色を施した馬を買ってきてくれた。私は、幼少時代、玩具という物を持った覚えがないが、母も、この馬は嬉しかったらしい。それを私は、持ち上げると共に
「四王天、馬とって抛った」
と、叫んで、土間へ投出したのだそうである。土の馬故、粉々で、鹿やんは
「ああ」
と、云ったまま、ひどく悄気《しょげ》たというが、この事は、幼稚園以前であるから、私の大衆文学智識というものは、相当に古くから、その淵源をもっている。
これを裏書するもう一つの事実は、東京の新粉細工《しんこざいく》、大阪団子細工、あれの細工しないで、板へ並べただけのものが、――今も、何んというか知らぬが――欲しくて仕方がないが、名がわからない。いろいろと考えて
「義経の八艘飛《はっそうと》びおくれ」
と、団子屋に云った。
「八艘飛びあれへん」
と、素気なく云われて、幼稚園で、友達の中へも入れぬ臆病な私が、大道の真中で、何んなに立ちすくんだか、それから、暫《しばら》く、団子は買わなかった。
この、四王天や、八艘飛びは、鹿やんが教えてくれたものらしい。私の為に、絵本や、立版子《たてばんこ》を買ってきてくれたのは、ことごとくこの人であるから、何一つ、その話していてくれた事も思出せないが、父も、母も、そんな事は、全く知らぬのであるから、私の今日は、鹿やんのお蔭である。この鹿やんは、それから後、ずっと来ないようになったが、小学校時代に、その死を聞いた。何の感じも起こらなかった。鹿やんへの記憶が、
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