傾城買虎之巻
直木三十五

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)浅草|再法庵《さいほうあん》

|:ルビの付いていない漢字とルビの付く漢字の境の記号
(例)浅草|再法庵《さいほうあん》

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
   (数字は、JIS X 0213の面区点番号、底本のページと行数)
(例)※[#「※」は「ごんべん」に「虚」、第4水準2−88−74、371−3]《うそ》
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     一

   池水に夜な夜な影は映れども
     水も濁らず月も汚れず
 はなはだ面白い歌である。しかし、――
   池水に夜な夜な映る月影の
     水は濁れど影の汚れぬ
 としたら――私は松葉屋瀬川を、近世名妓伝の第一に持って行ってもいいと思う。
 この作は、浅草|再法庵《さいほうあん》に、行《おこな》い澄ましていた、元吉原松葉屋の抱え瀬川の作であって、庵《いおり》の壁に書いてあった一首の中《うち》だというのである。
「宮城野|信夫《しのぶ》」なる話が全然架空の事実で、大田蜀山人の例の手紙――手紙などは全く偽物であって、暇に任せて拵えたものらしいが、この瀬川の話なども、延享から宝暦へかけての、江戸時代でも一番退屈であった盛りの時に、欠伸除《あくびよ》けに造られたものらしい。
 「翁草」にこの瀬川の仇討を、通信文で尤《もっと》もらしく書いているが、この文の出所というものが全然不明で調べるによしが無い。と云ってこの外に記録は無いから、※[#「※」は「ごんべん」に「虚」、第4水準2−88−74、371−3]《うそ》ともいえぬが、本当とも云えぬ。後段の、
[#ここから2字下げ]
「江戸なる哉《かな》、江戸なる哉、天明三年吉原松葉屋今の瀬川を千五百両にて身請せし大尽あり、諸侯の類《たぐい》かと聞くに不然《しからず》、尋常の町家なりとぞ」
[#ここで字下げ終わり]
 位は信じられるが、とにかく※[#「※」は「ごんべん」に「虚」、第4水準2−88−74、371−7]八百の瓦版が出たり、役所の報告に出鱈目を云ってきたりした時分だから、
[#ここから2字下げ]
「年々色をかえ品をかえたる流言の妄説《うそばなし》、懲《こり》も無く毎年|化《ばか》されて、一盃ずつうまうまと喰わさるる衆中」
[#ここで字下げ終わり]
 という風で、※[#「※」は「ごんべん」に「虚」、第4水準2−88−74、371−11]吐きが念を入れて流行《はや》って居たから「瀬川の仇討」など、当時の手紙一本位を証拠に信じる事は出来ない。
 従って、瀬川が仇討をしてから、再法庵へ移ったのも嘘であるし、和歌も勿論、後世の人の悪戯《いたずら》となってしまう。然し、悪戯にしても、中々味のある歌で、男を水、己れを月として、夜ごと夜ごとに枕を代えているが、悟ると月も水も汚れない――というよりも、私のつくり更《か》え、男は汚れても女は汚れぬと、男はこう悟るが、中々女の諦めきれぬのをよく諦悟《ていご》させた歌である。

     二

 そこで、※[#「※」は「ごんべん」に「虚」、第4水準2−88−74、372−2]としておいても、この話は有名なもので、秋篠《あきしの》の助太刀と共に遊女武勇伝として双璧とすべきものである。※[#「※」は「ごんべん」に「虚」、第4水準2−88−74、372−3]を※[#「※」は「ごんべん」に「虚」、第4水準2−88−74、372−3]としておいて書いて行っても興味――極めてお芝居的な興味の多い物語である。尤《もっと》も※[#「※」は「ごんべん」に「虚」、第4水準2−88−74、372−4]を吐くのに余り面白くないものはいけない。それにこの話は可成り狂言作者が手を加えているらしいから、従ってお芝居的な技巧が多すぎもする。興味が或は薄いかも知れぬ。興味の有無は読者にもよる。私はとにかく、書いてみる位の興味はもっている位にしておいて――。
「歌浦さん、一寸《ちょっと》」
 と、禿《かむろ》が呼んだから、妓《おんな》が膝に凭《もた》れていた客が、いやいや柱へ凭れ直した。歌浦が立って行くと、
「嫉《や》けるから」
 と、瀬川が笑っている。
「まあ」
 瀬川が襖を開けると、客は真赤な顔をしながら、浄瑠璃を語っていた。床柱へ凭れて赤い顔をしながら語っている浄瑠璃に余り上手なものは無い。瀬川は打懸《うちかけ》を引きながら入ってきたが、その客の前へきて、すらりと脱捨てると、右手に閃く匕首《あいくち》。
「敵」
 と云って肩日へぐさと突きさすと力を込めて斬下げた。
「あっ」
 と、締められたような声を出して、客が床の間へ倒れたとき、
「父の敵、源八」
 と叫びつつ又振上げた匕首の手を一人の他の客が握って、
「何をする、危い」
「離して、離し
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