図をまつ事になる。又右衛門は武右衛門をつれて傷の手当をしに数馬の姻族、彦坂加兵衛の家へ行って水を飲み、大飯を食って、役人のくる迄と眠ってしまった。藤堂家中の人々が称《ほ》めるのも、鳥取侯が死んだと偽って郡山へ戻さなかったのも三大仇討の一つと云われるのも、講釈師が飯の種にするのものも、芥川竜之介が又右衛門を強いというのも――尤《もっと》も芥川氏は弁慶が一番強いんだそうである。日本人の造出した一番強い奴が弁慶だからこいつに敵《かな》う奴は無いのだそうである。べんけいする奴には敵はないとか、ベんけいは天才の母とかいうのは此処から出た事である――。
武右衛門は暫くして死んだ。三助と半兵衛も二三日して死んだ。又右衛門は擦傷《かすりきず》を受けただけである。四十一歳で死んだというが、鳥取藩私史と渡辺家記とから考えると後まで城内深く留めておいたものらしい。墓は鳥取市外の玄忠寺にある。数馬は寛永十九年十二月二日に死んだ。鳥取寺町興禅寺に墓がある。岩本孫右衛門は七十三まで長命した。矢張寺町の光明寺にある。三人の子孫共現存しているそうである。郡山には荒木の屋敷趾が保存されているし、鳥取にも跡が判っている。数馬の家も粟屋町に残っている。川合又五郎の墓は上野の寺町万福寺にあって、念仏寺の川合武右衛門の墓と隣同志になっている。外の連中のは何も残っていない。鍵屋は現在も茶店である。仇討の跡には碑が立っている。
底本:「仇討二十一話 大衆文学館」講談社
1995(平成7)年3月17日初版発行
1995(平成7)年5月20日2刷
入力:atom
校正:大野晋
2000年8月23日公開
2000年9月20日修正
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