りまで行つて見た。此処も矢張、耶馬渓の絵巻の一つのシインであるに相違なかつた。
 ことに、私は柿坂のかぶと屋の静かな一夜を忘れかねた。軌道が出来たので、その停車場の近くに新しい旅舎をつくつたが、それが丁度山陽の擲筆松といふあたりの渓潭に近いので、さゝやかな静かな渓声が終夜私の枕に近く聞えた。
 そしてその渓声は、耶馬渓の特徴を成してゐるので、決して日光あたりで聞くあの凄じい怒号でもなく、また塩原あたりで耳にするあの潺渓でもなく、また上高地あたりで聞くあの嗚咽でもなかつた。それは静かに囁くやうな渓声であつた。
 従つて、四季の中では、秋が一番美しいであらうと思ふ。紅葉の美は確かにこの谷の調和を保つであらうと思ふ。次には春が好いであらう。夏はこの谷の中はかなり暑い上に、山が浅いために虫が多く、それが灯の周囲にぱら/\と集つて来て、とても静かに坐つてゐることは出来なかつた。しかしこの谷では夏はかなりに旨い鮎が獲れた。津民谷で獲れるといふ鰻もあまりにしつこくなくて好かつた。
 私の三度目に入つて行つた時には、雨で、卯の花が白く咲いてゐた。「雨にあふもまたあしからじ卯の花の多き谷間の夕ぐれの宿」といふ歌を私は手帳に書きつけた。



底本:「現代日本紀行文学全集 南日本編」ほるぷ出版
   1976(昭和51)年8月1日初版発行
入力:林 幸雄
校正:鈴木厚司
2004年11月24日作成
青空文庫作成ファイル:
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