ほ/\としてゐて、伴れの男が氷を買つて呉れても、それを飲むにすら気が進まないといふ風であつた。可愛い眼をした娘だつた。
「おゝ好い」
かう女が言つたので、気が附くと、軌道車は既に美しい鮎返りの瀑を前にして、今しも樋田の洞門にかゝらうとしてゐた。山には山が重なり合ひ、雲はまたその山の上に※[#「分/土」、第4水準2−4−65]湧した。
私はあちこちを女や女の母親に示した。「そら、そこの洞門の中を歩いて通つて行くんですよ。あそこに路があるんですよ。歩いて見ると、もつと非常に景色が好いんですがね。」
段々帯岩一帯の奇岩が雨後の筍のやうに続々としてあらはれ出して来た。あるものは簇がる雲の中から、或るものは連なる峰の上から、時には松をあしらひ、時には檜の木の林を靡かせつゝ――そして渓は幾曲折しその間を流れて行つた。
樋田から羅漢寺に来た時には、薄暮の色が既に迫つて、村や、橋や、谷や、路がぼつとぼかしの中に見えるやうになつた。霧も薄くかゝりつゝあつた。
私は羅漢寺のある山のあたりを回顧して見たけれども、既にその髣髴をも認めることが出来なかつた。
次第に谷は夜になつて行つた。ある停車場に着いた時には、最早渓流の白い瀬をも見ることが出来なかつた。汽車がとまると、唯水の音が淙々として聞えた。
幸ひにも雨は晴れたらしかつた。手を窓の外に出して見た女は、
「あゝ好い塩梅に止んだわ。」
と言つて、晴れてゐたら月がさぞ美しく渓を彩るであらうと思はれるやうな、底の明るみを持つた空を仰いだ。
「天気になりさうね。」
「なるかも知れないよ。」
このおぼろ夜が、被衣につゝまれたやうな茫とした白い夜が私には嬉しかつた。それにさつきから気にしてゐたが、三等室には電気がついて居ながら、二等室には竟に灯が点かなかつた。
「つかないのかしら、えらい汽車の二等室ね。」かう女は私やその母親に言つた。
「闇の方が好いよ。その方が山や川が見えるよ。」
私はかう女に言つた。さつきあれほど乗つてゐた乗客は――三等室も二等室もない程乗つてゐた人達は、何時となく下りて、私達のゐる車室には、私達三人と他に一人隅に横になつてゐる男があるばかりであつた。
灯のない汽車は、茫とした白い夜の中を静かに走つた。川の瀬は白く、両岸には、奇岩の兀立してゐるのが微かであるが、それでも到る処に指さゝれた。これも車中に灯かげ
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