新居にたどり着いたのは、もうかれこれ十二時に近かった。燈光《あかり》もない暗い大和障子《やまとしょうじ》の前に立った時には、涙がホロホロとかれの頬をつたって流れた。
 けれどいかようにしても暮らして行かるる世の中である。それからもう四年は経過した。そのせまい行田の家も、住みなれてはさしていぶせくも思わなかった。かれはおりおり行田の今の家と熊谷の家と足利の家とを思ってみることがある。
 熊谷の家は今もある。老いた夫婦者が住まっている。よく行った松の湯は新しく普請《ふしん》をして見違えるようにりっぱになった。通りの荒物屋にはやはり愛嬌者《あいきょうもの》のかみさんがすわって客に接している。種物屋《たねものや》の娘は廂髪《ひさしがみ》などに結《ゆ》ってツンとすまして歩いて行く。薬種屋《やくしゅや》の隠居《いんきょ》は相変わらず禿《はげ》頭をふりたてて忰《せがれ》や小僧を叱っている。郵便局の為替《かわせ》受け口には、黒繻子《くろじゅす》とメリンスの腹合《はらあわ》せの帯をしめた女が為替の下渡《さげわた》しを待ちかねて、たたきを下駄でコトコトいわせている。そのそばにおなじみの白犬《しろ》が頭を地
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