んな大きな望《のぞ》みを出したッてしかたがないじゃないかねえ」
「だって、僕一人田舎に埋もれてしまうのはいやですもの。一二年はまアしかたがないからこうしているけれど、いつかどうかして東京に出て勉強したいと思っているんです。音楽のほうをこのごろ少しやってるから、来年あたり試験を受けてみようと思っているんです。今から女房など持っちゃわざわざ田舎に埋れてしまうようなもんだ」
「だッて、はいれたところで学費はどうするんのさねえ?」
「音楽学校は官費があるから」
「そうして家はどうするのだえ?」
「その時は父《おとっ》さんと母《おっか》さんで暮らしてもらうのさ。三年ぐらいどうにでもしてもらわなくっちゃ」
「それはできないことはないだろうけれど、父《おとっ》さんはああいうふうだし、私ばかり苦労しなくっちゃならないから」
 清三は黙ってしまった。
 またある時は次のような会話をした。
「お前、加藤の雪さんをもらう気はない?」
「雪さん? なぜ?」
「くれてもいいような母《おっか》さんの口ぶりだッたからさ」
「どうして?」
「それとはっきり言ったわけじゃないけれど、たって望めばくれるような様子だッたから」
「いやなこった。あんな白々《しら/″\》しい、おしゃらくは!」
「だッて、郁治さんとはお前は兄弟のようだし、くれさえすりゃ望んでも欲《ほ》しいくらいな娘じゃないかね」
「いやなこった」
「このごろはどうかしたのかえ? 加藤にもめったに行かんじゃないか?」
「利益交換《りえきこうかん》なぞいやなこった!」
 こう言って、清三はぷいと立ってしまった。母親にはその意味がわからなかった。
 一月には郁治も美穂子も帰っていた。郁治にも二三度会って話をした。美穂子についての話はもうしなかつた。郁治はむしろ消極的に恋愛の無意味を語った。「なぜあんなに熱心になったか自分でもわからない。ちょうどさかりがついたもののようなものだったんだね」と言って笑った。そのくせ郁治と美穂子とはよく相携《あいたずさ》えて散歩した。男は高師の制帽をかぶり、女は新式の庇髪《ひさしがみ》に結《ゆ》って、はでな幅の広いリボンをかけた。小畑の手紙によると二人はもう恋愛以上の交際を続けているらしかった。清三はいやな気がした。
 ちょうどそのころ熊谷の小滝の話が新聞に出ていた。「小滝《こたき》の落籍《らくせき》」という見出しで、伊勢崎の豪商に根曳《ねび》きされる話がひやかし半分に書いてある。小滝には深谷の金持ちの息子《むすこ》で、今年大学に入学した情人《いいひと》があった。その男に小滝は並々ならぬ情《なさけ》を見せたが、その家には許婚《いいなずけ》のこれも東京の跡見女学校にはいっている娘があって、とうてい望みを達することができぬので、泣きの涙で、今度いよいよ落籍《ひか》されることになったと書いてある。その豪商は年は四十五六で、女房も子もある。「どうせ一二年辛い年貢《ねんぐ》を納めると、また舞いもどって二度のお勤め、今晩は――と例のあでやかな声が聞かれるだろうから、今からおなじみの方々はその時を待っているそうだ」などとひやかしてあった。ほんとうの事情は知らぬが、清三はそうした社会に生《お》い立《た》った女の身の上を思わぬわけにはいかなかった。思いのままにならぬ世の中に、さらに思いのままにならぬ境遇に身をおいて、うき草のように浮き沈みしていくその人々の身の上がしみじみと思いやられる。小滝のある間は――その美しい姿と艶なる声とのする間は、友人が離散し去っても、幼いころの追憶《おもいで》が薄くなっても、熊谷の町はまだかれのためになつかしい町、恋しい町、忘れがたい町であったが、今はそれさえ他郷の人となってしまった。神燈《じんとう》の影《かげ》艶《なまめ》かしい細い小路をいくら歩いても、にこにこといつも元気のいい顔を見せて、幼いころの同窓のよしみを忘れない「われらの小滝」を見ることはできなくなったのである。清三は三が日をすますと、母親のとめるのをふりはなって、今までにかつてないさびしい心を抱いて、西風の吹き荒れる三里の街道を弥勒《みろく》へと帰って来た。
 それでも懐《ふところ》には中田に行くための金が三円残してあった。

       三十六

 三月のある寒い日であった。
 渡良瀬川《わたらせがわ》の渡し場から中田に来る間の夕暮れの風はヒュウヒュウと肌《はだ》を刺《さ》すように寒く吹いた。灰色の雲は空をおおって、おりおり通る帆の影も暗かった。
 灯のつくころ、中田に来て、いつもの通り階段《はしご》を上がったが、なじみでない新造《しんぞ》が来て、まじめな顔をして、二階の別の室《へや》に通した。いつも――客がいる時でも、行くとすぐ顔を見せた女がやって来ない。不思議にしていると、やがてなじみの新造《しん
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